4/07/2024

仏智山津友寺跡・蒲生城跡 (3)


2023.12.30 (4)

島津氏12代 忠治の墓所跡でもある仏智山津友寺跡。参道には仁王像が残されている。



吉田氏14代 位清は島津氏に叛き吉田松尾城に立てこもると、島津氏12代 忠治はこれを攻めた。陣中にあった忠治が1515年に亡くなり、弟の忠隆が引き継ぎ攻めたて位清は降伏、薩州家を頼って出水へ向かう途中だったが自害したという。

忠治が葬られた了心寺は津友寺と改められ昔提寺となった。1975年、福昌寺跡墓地に改装され、現在は墓所跡として保存されている。





まだ日没まで時間があったので、蒲生城跡の奥に築かれた荒平新城曲輪群を目指す。駐車場の説明看板が新調され、本丸跡の標柱が新たに設けられていた。



本丸曲輪群、馬場跡を抜けた土橋の先が倉ノ城跡になる。



右にまわり込む道を進む。倉ノ城跡を右側にみた切岸。



土矢倉城跡へ通じる枡形虎口。



切り通しを抜ける。



右側に土矢倉城跡の虎口がある。



1554年に岩剣城を落とした島津氏15代 貴久は、支城の北村城を1556年に陥落させると蒲生城攻めにとりかかる。吉田衆が土矢倉に忍び入り番衆4人を打って番屋に火を掛けたという。

曲輪にある山神祠と土塁。



蒲生城攻めに従軍した赤塚源太左衛門は、島津氏に仕え各地を転戦、1595年に蒲生城の守りを任された。また関ヶ原合戦前、人質の宰相殿に共したほど信頼が厚く、敗戦後に適中突破を成した島津義弘らと合流して薩摩に戻った。そして徳川方の進行に備えて荒平新城の増築を命じられ、その新城御番を1610年まで務めている。


土矢倉城跡から下る城道が延びる。これに面する曲輪群が荒平新城といわれるが、藪化で遺構らしいものは判断できなかった。

荒平新城からみた土矢倉城跡へ通じる虎口。


3/31/2024

加治木城跡・黒川岬展望公園


2023.12.30 (3)

網掛川と日木山川に挟まれる丘陵に築かれた加治木城は、平安時代に大蔵氏が築城したといわれている。



搦手坂から道なりに進み御馬城跡の標柱が目に付く。




途中の縄張り図によると、御馬城の西側に二ノ丸、本丸、西ノ丸と横並びの連郭式中世山城だったことがわかる。現在は網掛川にむけて水田が広がり、二ノ丸跡と御馬城跡の間の農道が丘陵に沿うかたちで延び、城郭の裏側に回り込むと西ノ丸跡と本丸跡裏にそれぞれ通じる道があった。

開けた平坦地に出る。奥の白い小屋は二ノ丸跡と御馬城跡間の農道。



さらに一段あがった曲輪から連郭の空堀に出られる。ちょうど本丸跡(右側)辺りに出た。



本丸跡と二ノ丸跡の堀切から二ノ丸跡へあがる。



肝付氏12代 兼忠3男 兼光は本家を離れ肝付氏庶流となり、大隅国大崎城を拠点とした。その子の兼固は島津氏11代 忠昌に仕え、溝辺を与えられ移った。
1526年、相州家 島津貴久が島津氏14代 忠兼の養嗣子となり守護職が約束されると、帖佐平山城の辺川忠直は薩州家 島津実久に臣従した。そのため忠兼は島津忠良に命じてこれを平定させる。そして功績のあった肝付兼演は帖佐辺川、加治木の一部を与えられ、帖佐地頭に島津昌久が就いた。
しかし昌久がすぐさま謀叛を起こし、これに加治木城主 伊地知重貞が同調する。両者とも討ち取られ忠良によって鎮圧されたが、この間に実久が出水から軍勢を率いて南下、一宇治城などを落とし貴久が在城する清水城に迫ろうとしていた。そして実久の引導のもと、忠兼が勝久へ改名し悔い返しにより、奥州家と相州家、薩州家による相続争いは複雑化することになる。

兼演は1534年から加治木城に移り、後に加治木肝付氏初代として位置付けされる。奥州家の衰退につれ貴久に敵対するようになり、1549年に伊集院忠朗を大将に据え樺山善久、北郷忠相らが兼演を攻めた。黒川崎に陣を構えると、肝付方は日木山川を挟んで対峙し、現在の黒川岬展望公園辺りで行われた合戦は数か月に及んだ。



鉄砲の使用が記録(貴久公御請)された初見だという黒川岬合戦は、兼演が降伏し所領は安堵され加治木肝付氏2代 兼盛も貴久に従った。

黒川岬展望公園に黒川岬碑があり、島津家久が詠んだ和歌「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」が彫られている。錦江湾の名の由来だという。



1554年、蒲生範清は祁答院氏ら渋谷一族と、兼盛が守る加治木城を攻めた。貴久は救援策として岩剣城を攻めて牽制する策を取った。範清らは加治木城の囲いを解いて岩剣城の援護へと動く。そして大隅合戦へと展開していくことになる。

3/24/2024

天御中主神社・国分清水城・楞厳寺跡


2023.12.30 (2)

天御中主神社(北辰大明神)に立ち寄って国分清水城へ。




島津忠久が島津荘下司職に補任されると、本田親恒が代官として下向した。その子 貞親は大隅国守護代を務め、国分清水城を居城に代々島津氏に仕えることになる。
時は下り、本田氏14代 薫親は近衛稙家に通じ、従五位下の官位を得て大隅国守護職をも脅かす存在になっていた。そして1548年、大隅正八幡宮の焼き討ち、家臣の斬殺などにより本田一族で内紛が起こる。これに介入した島津忠良によって国分清水城が攻め落とされると、薫親と子の親兼は北郷氏を頼り庄内へ出奔した。
さらに対抗勢力の鎮圧にあたるため、島津氏15代となった貴久は約1年間在城し対処している。またフランシスコ・ザビエルと会見を行なった場所ともいわれ、キリスト教布教を許可した。同じような記録が一宇治城にもあるが、時期や大隅国の情勢を踏まえると、信憑性が低いわけでもない。その後、国分清水城には貴久の弟 忠将が城主として入り、以久そして彰久へと引き継がれた。

搦手口から大手口に向かって進む。



すぐに右へカーブする切通しが設けられている。



左脇には堀切。



林道の右側は連郭かと思われ虎口らしきものもあるが、急斜面で登れる様子もない。



城門跡か、説明板の先が大手口に繋がる主郭部。



本丸跡虎口。




1561年の廻城の戦いで戦死した島津忠将は、麓にあった楞厳寺に葬られた。



同夫人、朝鮮出兵で病没した垂水島津家3代 彰久の墓も並んでいたようだが、太平洋戦争の空襲で破壊されたという。後に垂水島津家墓所の16代 貴暢の墓と合葬された。現在は墓跡の標柱が建っている。

3/04/2024

加治木島津家墓所・長年寺墓地・伊集院源次郎忠真の墓


2023.12.30 (1)

加治木島津家墓所(松齢山長年寺跡)。



初代藩主 島津家久が2男 忠朗に創設させた加治木島津家。家格は一門家に位置付けされ、7代藩主 島津重年と8代藩主 重豪を輩出した。ここには加治木島津家2代 久薫の墓がある。



島津都美の墓碑。



加治木島津家4代 久門(後の重年)の正室に迎えられ、1745年に重豪を産んだその日のうちに亡くなった。後に島津本家に復し、藩主となった重豪が母の33回忌に亀趺碑を建立した。



椿窓院殿供養塔。島津忠良の3女で、肝付兼盛に嫁いだ西姫を祀ったもの。子の兼寛が万齢山椿窓寺に建て、いつの時代かここに移されたという。



長年寺墓地には、加治木城大手口の東にあった大樹寺から改葬された伊勢貞成の墓がある。



貞成は島津義弘の家老で関ヶ原合戦の退却の際、軍奉行として先陣を務め武功をあげた人物。後に島津忠恒の筆頭家老となる貞昌は弟になる。
1608年、島津家と肥前唐津の寺沢家との縁談があり、その破棄交渉役を自ら引き受けた。破談の理由は寺沢家がキリシタンであること、また逆にキリシタンに弾圧を加えていたともいい定かではない。任務を終えた貞成だが、寺沢家家臣に斬りつけられ深傷を負い落命したという。



実窓寺磧近くにある伊集院忠真の墓。



この亀趺墓は、忠真が実窓寺に埋葬されたものの墓碑がなかったため、加治木木田杉森門の新右衛門が1695年に建立したといわれている。

3/03/2024

鶴丸城跡


2023.12.29 (2)

午前中は伊集院方面をまわり、鹿児島市内に戻って興国寺跡墓地を再訪。豊州島津家、永吉島津家関係の墓石など探すも成果は得られず、鶴丸城跡及び周辺を散策する。

御楼門から本丸跡(黎明館)へ。



城内には石垣に沿って排水溝が設けられていた。遺構は保護のため埋め戻され、その上に復元した排水溝を設置している。



本丸内堀に面した御角櫓跡。基礎の一部を復元。



この辺りにあった御池は鴨池動物園への移設を経て、再び黎明館裏にその一部が移設された。



従三位島津重豪公頌徳碑。



1773年に創設した藩校造士館では、西郷隆盛や大久保利通も学んだ。造士館があった中央公園にも碑がある。



外堀(吉野橋堀)に架けられた新橋の橋柱が、天璋院像左手に移設されている。新橋は現在の県民交流センター東交差点付近にあった橋。



明治に私学校が建てられ、現在は鹿児島医療センターとなっている御厩跡。馬が飼育され、御厩役所や馬屋、馬具所などの建物があったという。

北御門から御厩跡、垂水島津家・宮之城島津家屋敷跡にかけての現在。



県民交流センターが建てられた垂水島津家・宮之城島津家屋敷跡。


2/19/2024

妙円寺・石谷高久の墓・伏野原古戦場・勝岡城跡(犬迫塁)


2023.12.28 (5)〜12.29 (1)

曹洞宗寺院の妙円寺は、伊集院忠国の第11子 石屋真梁禅師により1390年に建立された。生前に島津義弘が自らの菩提寺と定め、寺領500石に及んだ寺院である。廃仏毀釈を経て、現在の徳重神社がある場所からここに移転復興された。



1394年に曹洞宗総本山である福昌寺の開山ともなった石屋真梁禅師の碑。




妙円寺から伊集院駅方面へ、フィットネスクラブと整形外科の間に石谷高久の墓碑がある。
島津氏7代 元久が亡くなると、弟の久豊と伊集院頼久との間で相続争いが起こり、その和解の条件で伊集院側から頼久の娘が久豊に嫁ぐことになり、化粧料として石谷が島津氏の直轄地とされた。
後に島津氏9代 忠国から石谷を与えられた町田氏12代 高久は石谷(16代 忠栄から町田に復姓)を名乗る。しかし旧来の領地であった石谷を町田氏が得たことに不満があった伊集院熙久は、1449年に忠国の名をかたり一宇治城に呼び出し妙円寺山門に兵を伏せた。そして馳せ参じた高久を騙し討ちとする。これに怒った忠国は翌年に一宇治城を攻め熙久は肥後へ逃亡、一宇治城は島津氏の配下に置かれる。
高久が謀殺されたここに、町田氏26代 久視によって1812年に墓碑が建てられた。




1536年、薩州家 島津実久に与していた町田氏16代 忠栄は、相州家 島津忠良と貴久の誘いに内応する。忠栄の異志を危惧した実久は、直臣の大寺資安を石谷城に入れ、鹿児島に石谷梅久らを人質として置いた。密かに忠栄は忠良と連絡を取り挙兵すると、相州家方の兵を石谷城に引き入れることに成功し資安を討ち取った。
一方で梅久には伊集院に向かうよう内々に伝えている。その挙兵の前日、鹿児島を脱出した梅久は忠梅(後の久徳)を伊集院へと逃し、石谷城の様子を覗いに行ったところ、石谷城攻めに備えていた肥後助西の手と遭遇、応戦するも一族の町田忠親とその弟の三郎右衛門尉共々討死した。

その野戦の場となった伏野原古戦場。



梅久と町田忠親兄弟の墓碑は戦死した伏野原にあったというが、後に永福寺墓地へと改葬された。
この戦さでなんとか伊集院に落ちのびた忠栄ら町田一族は、忠良方として肥後助西の守る竹之山攻めに従軍。福山も制圧すると勝岡城(犬迫塁)も1537年に降り、忠良と貴久は犬迫まで進軍した。実久は鹿児島から兵を出しこれを迎え撃つが、小野から園田実明が背後をつき、実久軍は小野栗山坂下で総崩れとなり谷山へと退いた。

犬迫小学校近くのひまわり園横にある勝岡城跡。



甲突川支流の犬迫川を堀とし小山田氏が築城、その後は比志島氏、島津氏が在城したといわれている。1526年の島津忠兼の書状によると、料所の犬迫15町の半分を河田氏に与えたという。おそらく比志島氏の庶家にあたる川田氏のことで、本家に献上し比志島氏が勝岡城に入城したと推測できる。麓には、比志島義祐が1530年に建立した八房神社が鎮座する。

登城口のすぐ左側は切りだった崖で、道幅も一人通れるほどしかない。



本丸下曲輪、竪堀の遺構が確認できる。



本丸跡。



城趾碑。