8/13/2018

畠山重保邸跡・和田塚・寿福寺・源氏山公園


2018.5.3

新宿から湘南新宿ライン横須賀線直通逗子行きで約1時間。

JR鎌倉駅東口を出て、若宮大路を右に徒歩10分。由比ヶ浜方面に歩くと、一の鳥居横に畠山重保邸跡の碑とその墓だと伝わる宝篋印塔がある。



1203年に比企一族を滅ぼし、実権を握った北条時政。その継室 牧ノ方の娘婿である平賀朝雅が中心となり、畠山一族が次なる有力御家人排斥に定められた。

1204年、源実朝の正室として公卿の坊門 信清の娘 信子を迎えるため、北条政範らと京都へ赴いた畠山重保。その時、平賀朝雅となんらかの理由で口論となった。
もともと武蔵国司の平賀朝雅と武蔵国の武将 畠山氏との間で対立があったと推測されているが、これを発端に平賀朝雅と牧ノ方は、根も葉もない畠山氏の謀反を北条時政に讒言した。北条義時の反対もあったが、畠山父子は共に討たれることになる。


1205年、鎌倉で謀反者が誅殺されるとの騒ぎがあり、畠山重保は従者3人と由比ヶ浜に向かった。これは記述の謀略によるもので、すでに待ち構えていた三浦義村の郎党に畠山重保は誅殺された。

ちなみに、邸跡の碑文には「実朝の命を以て兵を遣して重保の邸を囲む 重保奮闘之に死す」とある。



一方、鎌倉に異変ありの報を受け、鎌倉に向かっていた父の畠山重忠は、武蔵国の二俣川で北条義時によって討たれた。


ここから江ノ島電鉄 和田塚駅に向かって歩くと、1213年の和田合戦で滅びた和田一族の塚がある。



和田合戦から若干時系を戻す。
泉親衡は源頼家の遺児 千寿丸を擁し、北条氏の討伐を企てた。しかし計画が事前に露見、これに加わっていた和田義盛の子 義直、義重そして甥の胤長らが捕縛される。
和田胤長は陸奥国へ流罪となり、屋敷は没収。和田義盛は将軍 源実朝に乞い、屋敷を同族に下げ渡すことを認めてもらうが、北条義時は屋敷に置かれていた代官を追い出してしまう。
度重なる北条義時からの挑発を受け、和田義盛は挙兵を決断し和田合戦へと進展していった。

鎌倉幕府第3代将軍 源実朝は、若狭忠季(若狭島津氏の祖で、島津忠久の弟といわれる)を遣いとして、和田義盛に蜂起を中止にするように説得したが、聞き入れられず和田勢は大倉御所、北条義時邸、大江広元邸を襲撃。
同族の三浦義村が裏切って挙兵を洩らしていたこともあり、次第に劣勢となり由比ヶ浜に退いた和田義盛は、和田義直共々討ち取られた。

1203年に比企能員の変に縁座した疑いで、薩隅日守護職・地頭職を収公されていた島津忠久は、北条氏に加担し武功を挙げ、10年ぶりに薩摩国地頭職を還補された戦さでもある。(薩摩国守護職は1205年に還任。)


次は、和田塚から六地蔵尊を通って鎌倉駅方面に戻り、寿福寺、源氏山公園を目指す。

もとは源義朝の館だったといわれる地に、北条政子が1200年、明庵栄西禅師を開山に招いて建立られた寿福寺。



寿福寺裏の墓地に源実朝と北条政子の墓がある。中世の横穴墳墓で、やぐらの中に五輪塔が納まっている。



源実朝の墓。鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の式典を終えた後、大銀杏の陰に身を潜めていた甥の公暁(頼家の遺児)に襲われ命を落とした。




海蔵寺に参拝して源氏山公園に向かう。その途中の化粧坂は鎌倉七口といわれた鎌倉への陸路の一つ。




化粧坂を上がって左に行くと、源頼朝像がある広場に出る。

後三年の役で、源義家(八幡太郎)が源氏の象徴 白旗を立て、山頂で戦勝を祈願したことから源氏山と呼ばれるようになった。源頼朝も平家追討の際、戦勝を祈願したという。

源頼朝像。



 

源氏山公園から銭洗弁財天 宇賀福神社方面に下る。
参拝を終え、すぐ裏手にあるgulaというカフェで一服することにした。わらび餅セットを注文。ミニチーズケーキはサービスかもしれないけどこれで300円。



左が宇賀福神社の御朱印。右は海蔵寺。

 

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