8/31/2018

諏訪山吉祥寺・東叡山津梁院


2018.5.21

南北線本駒込駅から徒歩5分の諏訪山吉祥寺。



山門から参道を進み右手に経蔵、左手に二宮尊徳の墓碑まで進む。左の墓地エリアに入ると、大火の影響か?黒ずんだ巨大な五輪塔の諸大名墓地が異彩を放っていた。
その一画に、島津久敏と町田久幸のお墓が2基並んである。

両氏とも台石が崩壊寸前で状態はかなり悪く、町田久幸の宝篋印塔に至っては相輪が落ちてしまっていた。

おそらくこっちは背面側なのだろうが、島津久敏の墓は木が生い茂っていて正面から撮るのは無理がある。

島津久敏の墓(背面)。



基礎に「薩州住 島津氏」と彫られた島津久敏の墓。戒名は節心良忠大居士。



島津久敏は、垂水島津家当主 島津彰久と島津氏第16代当主 島津義久の次女 新城との間に生まれた島津忠仍を父とする。
島津義久には男子はなく、島津忠仍は島津本宗家の家督相続候補で血統的に優位でありながら、第18代当主に就いたのは島津忠恒だった。

家督を争った2人の遺恨は、島津忠仍改め久信(信久とも)の子 島津久敏にまで及んだ。
島津久敏は江戸に滞在中、23歳の若さで早世しこの吉祥寺に葬られた。
そして垂水島津家は島津家久(忠恒)の息子 島津忠紀が養子に入り相続、父の島津忠仍は1637年に毒殺されている。


町田久幸の墓(正面)。



こちらは「薩州住人 町田氏」と彫られている。戒名は江山隣月庵主。



町田氏は、島津本宗家2代 島津忠時の孫にあたる島津忠経が分家したことに始まる。
その興りは島津本宗家5代 島津貞久の代で派生した新納氏、樺山氏や北郷氏よりも古く、代々島津家の家老職を務めた三大権門のひとつに数えられる。

その町田久幸が活躍したのは戦国末期から江戸初期。1587年、島津義久は九州征伐に降伏し、川内泰平寺で豊臣秀吉に面謁した。その際また後の上京の時にも、町田家18代当主 町田久倍を供にしているが、庶子の町田忠綱、次男 町田久幸を引き連れ島津義久の供奉に加えた。

町田久倍の後を継ぎ、当主になっていた町田忠綱だったが朝鮮の役で病死。本来なら当主になるはずのない町田久幸が家督を相続し、後年には島津家久(忠恒)の家老となり職務を全うした。


1599年、島津忠恒が筆頭家老 伊集院忠棟を誅殺した事件があり、子の伊集院忠真は国元で反乱を起こす。この庄内の乱を鎮圧すべく町田久幸は、大口衆を率いて島津忠恒に追従、山田城攻めに参加しそれを落とした。これは墓石の基礎に彫られた碑文からも読み取ることができる。

町田家20代当主にあった町田久幸は、妻を先に亡くし島津忠長の娘と再婚した。関ヶ原の戦いで戦死した島津豊久の室だった人物だが、子の無い町田久幸がすでに30代半ばを後妻に迎えた意図するものがわからない。
結局、町田久幸は子宝に恵まれず、1624年に江戸の島津藩邸桜田屋敷で亡くなり、島津家久の6男 島津忠尚が養子に入り家督を継いだ。

同年に島津久敏も亡くなっていて、藩主 島津家久の子がそれぞれ家督を継いでいるのは、偶然ではなく策略的で乗っ取りと捉えられるのが定説か。



2018.6.17

町田家の末裔である町田久成のお墓が、上野の東叡山津梁院にあるので行ってきた。



戒名は一乗比丘久成で、笠付塔婆形という変わった墓石の形が手掛かり。敷地も広くないので見つけるのは容易かった。



町田久成は国立博物館初代館長として有名だが、薩英戦争では東郷平八郎を従え、本陣警護隊長を務めたという人物。
地元の永福寺には、生誕の地との看板が掲げてあり、町田家歴代当主の墓がある。

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