2/26/2019

山中城跡


2019.2.19

品川駅から東海道・山陽新幹線で三島駅まで45分。さらに南口を出て5番乗り場から山中城跡公園までバスで35分。



山中城は小田原の西方の防衛拠点として、後北条氏第3代当主 北条氏康により東海道を遮る形で1560年代に築城された。1590年の小田原合戦の緒戦となったことでも知られている。

 


東海道の一部である箱根旧街道は、江戸時代に石畳が敷かれ整備された。



箱根旧街道から岱崎出丸に入り一番奥のすり鉢曲輪へ向かう。
中央に向けて傾斜がついていることから由来し、防備のための武者だまりと推定されるというが、当時はさらに深かったらしく待機しづらい矛盾が残る。



岱崎出丸西側の一ノ堀と呼ばれている畝堀。障子堀も同様、現在は芝生や樹木で保護されているが、往時は滑りやすいローム層の赤土が露出した状態だったという。



1587年の九州侵攻で島津義久が降伏し、豊臣政権の天下統一まで残すは関東の北条氏政(当主は北条氏直)、奥州の伊達政宗となった。北条氏は臣従を決めたものも北条氏政は上洛を先延ばしにし続けていた。
1589年、北条方の沼田城代 猪俣邦憲が真田昌幸の名胡桃城を襲撃したことにより惣無事令が破られ、豊臣秀吉は小田原征伐に踏み切ることになる。

参陣が命じられた島津久保は騎歩共わずか450人、15騎の中に北郷三久、樺山久高、伊勢貞昌らを従え豊臣軍主力部隊と東海道を進んだ。
途中、連日の雨で水嵩が増した駿河富士川を渡れず躊躇する諸将を横目に、島津久保が瀬踏みを申し入れ見事に渡りきったという話しがよく知られている。

そして豊臣秀次率いる7万近い軍勢が、小田原城の支城の一つ山中城を攻撃した。籠城する北条方は4千。島津軍はすり鉢曲輪の東側(一ノ堀の逆側)から攻め入ったという。



国道1号線を渡り、三ノ丸堀から田尻の池を通って三ノ丸の宗閑寺へ。境内には北条方・豊臣方両武将の墓がある。

右が山中城城主 松田康長で、五輪塔は岱崎出丸で討死した間宮康俊らの3基が並ぶ。



その右手の囲垣は豊臣方の武将 一柳直末の墓。



三ノ丸から田尻の池に戻る。虎口を入り両側を土塁で挟まれた坂道が元西櫓、二ノ丸に通じる通路になっている。



二ノ丸を抜けると本丸へと通じる。本丸跡。



西ノ丸から西櫓にかけての障子堀。




静岡県三島市による山中城址の空撮映像。遺構の保存から公園としての管理まで、三島市の取り組みには頭が下がる。