2017.7.9
三田線三田で下車。第一京浜をJR田町駅方面へ向かうと、三菱自動車本社ビルの前に西郷・勝両氏会見地の記念碑がある。
ここ薩摩蔵屋敷は両氏が会談し、江戸無血開城を取り決めた地とされる。
江戸時代、島津氏は徳川家の松平の名字を与えられた。この古地図然り、幕府の公式文書には松平薩摩守と記される。
当時この蔵屋敷は海に面していて、国許から送られてくる米、物資などが陸揚げされた。
第一京浜から日比谷通りへ入り、NECの三井住友信託銀行側に薩摩上屋敷跡の石碑がある。
江戸末期、薩摩藩は外桜田や本芝、三田、高輪、下渋谷村など数多く屋敷を所持していた。
この本芝は島津斉彬の誕生地であり、篤姫が将軍家への輿入れ準備をしていた所だが、安政の大地震で被害を受けた。広大な敷地には庭園や池に架かる橋、能舞台までがあったとか。
三井住友信託銀行からセレスティン芝三井ビルディングにかけての裏手に「芝さつまの道」として整備され、その中央部には説明書きや重ね合わせ図が掲げられているので当時の位置関係を知ることができる。
現在は噴水や石垣の石を利用したベンチ、シャレたオブジェが設置され憩いの場となっている。
大手町乗り換えで帰るので、下車し皇居東御苑に立ち寄った。永代通りへ出ると大手門が見える。
向かって左側の桔梗堀。
手荷物検査を受け皇居東御苑エリアへ入苑。大手門の内側からみるビル群は異様に感じる。
渡櫓門を潜ると三の丸。
大手三の門の先にある同心番所。当時は大手三の門前には濠があり下乗橋が架かっていた。その手前に置かれていたものが現在の位置に移されている。
二の丸から本丸へ通じる要所に設けられた百人番所という検問所が現れる。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜を問わず常時100人で詰めていた。それが百人番所の由来にもなっている。江戸城の数少ない遺構だそうだ。
中之門を抜けすぐ右手が大番所。
中雀門を抜けると本丸大芝生が広がる。
その南端に位置する三重の櫓を持つ富士見櫓。1657年、明暦の大火で天守ともに焼失した。天守は再建されなかったが、富士見櫓は1659年に再建され、天守の代用として機能した。
浅野長矩が吉良上野介を斬りつける刃傷事件が起こった松の廊下。長矩は切腹に処せられ、赤穂浪士による敵討ちに発展した。現在は石碑で位置を知ることができる。
大奥の脇にある石室は、用途がよくわかっていないらしい。
現在の大奥跡。
明暦の大火後、幕府は天守再建に動き天守台が完成した。
しかし天守の再建には会津藩主 保科正之が待ったをかけた。江戸の街は大半が焼き尽くされ、甚大な被害を出しているのに天守再建に莫大な費用を掛けられないと。
幕府は街の復興を優先させる決断へ至った。それには戦さのない天下泰平が時代背景にあったともいえる。
現在残る天守台はその時に築かれたもので、江戸城に天守があったのは50年程ということになる。
本丸と二の丸を繋ぐ汐見坂。
汐見坂から見た白鳥濠。
汐見坂を下り二の丸庭園へ向かおうとすると、従業員に止められた。もう閉園らしい。
北桔橋門と平川門にも発券所があるから出入りできるはずだが、大手門近くの将門塚へ行く予定にしていたので大手門から出た。
現在、将門塚の三方は仮囲いで仕切られ、敷地外は工事中だった。