12/27/2017

崇福寺・岐阜城


2017.8.15

ホテルをチェックアウトして、電車で大垣駅から岐阜駅へ移動。目の前に現れたのは黄金の織田信長像。
今日は終日小雨で天候が悪い。



ここからバスに乗換えて長良川国際会議場北口で下車。最初の目的地は、信長の菩提寺である崇福寺。


 
本堂の拝観には200円かかり、音声ガイドにあわせて展示物を観る形式を取っている。
中でも興味深かったのが血天井というもの。
現場となったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城。時の城主は信長の孫にあたる織田秀信。秀信は石田三成が挙兵すると、家臣の反対を押しきってまで西軍に加担を決めるが、東軍の標的となり岐阜城は攻め落とされた。
家臣の説得により秀信は降伏し落ちのびたが、38名の将兵が討死または自刃した。彼らの菩提を弔うため、その時に血で染まった床板を崇福寺の天井に張ったものらしい。

 
拝観を終え、朱印帳を書いてもらっている間に、本堂裏にある信長と信忠の廟所、斉藤利匡一族の墓を見学。

織田信長父子廟。



右手には父子の位牌が安置されている位牌堂。



朱印帳を受け取り崇福寺を後にした。



バスで戻り、鵜飼で有名な長良橋で下車。長良川の川港として栄えた川原町には、蔵を利用したカフェや工芸品店が建ち並んでいた。
ここで昼食を済ませ、山麓駅まで歩き金華山ロープウェイで岐阜城へ登る。
天候が悪いので天守も薄っすらしか見えない。



ロープウェイを降りると、天下第一ノ門はすぐ近く。ここから10分くらいかけて天守を目指す。



金華山の特徴であるチャートの岩盤が至る所で確認できた。



ニノ門から見える天守。



天守からの風景。



麓に戻る。
岐阜公園の一部になっている信長居館跡は、現在も発掘調査中。



当時の入口はこの冠木門ではなく、板垣退助(岐阜公園内で襲われた)像の辺りだったようだ。
宣教師ルイス・フロイスの「長い石段を登り、宮殿の広間に入る」という記録から裏付けできる。
空中回廊のほか、庭園の遺構などが見つかっていて、客人のもてなしや外交の場として使われたと考えられている。



信長居館跡近くの岐阜市歴史博物館でGifu 信長展が催されていたので立ち寄る。

そしてGifu Media Cosmosの信長公ギャラリーで、CG再現された信長居館の映像を見て東京に戻った。



関ヶ原の戦いの前哨戦で、秀信に仕えた小林新六郎正祐は岐阜城陥落後、河瀬茂賀山城に帰城した。
関ヶ原本戦が終焉し、領内を警戒していた小林新六郎の家臣が、関ヶ原から撤退してきた島津義弘の一行に遭遇し、帰路を案内したという伝承がある。
義弘らは五僧峠を抜けた保月村辺りから案内してもらい、高宮河原で宿を取らせてもらったことを記す感状を小林家に残した。
しかしこの感状では、元服時の忠平の名で書かれているのは疑問があるし、花押は明らかに義弘のものではないらしい。素性を隠すためなのか?
専門家の間では、義弘とはぐれた新納旅庵らが道案内してもらい、感状を書いたが署名を偽造したという見解が取られている。
そもそも義弘の退き口ルートには、はぐれた者の記録も残っていて、混同しはっきりわかっていない。

12/26/2017

大垣城・安楽寺


2017.8.13

関ヶ原を後にし大垣のホテルにチェックイン。近くの大垣城に向かうも、時間が遅く城内に入場できずに外観だけ楽しむ。

関ヶ原の戦い本戦前、西軍が本陣とし島津勢も詰めていた大垣城。しかし合戦前夜、小早川秀秋の寝返りが明らかになり、山中に布陣していた大谷吉継を救援するため、石田三成と共に島津義弘らも大垣城から関ヶ原へ移動した。
近年の研究では、開戦後に徳川家康が小早川秀秋に寝返りを催促した問鉄砲の定説はほぼ否定されている。

 


伏見城を陥落させた西軍は伊勢、美濃、北国の三方面から東国へ進軍する。島津勢は垂井宿に陣を布き、島津義弘ら主従は大垣城に入った。
東軍が竹ヶ鼻城辺りまで迫っていることを知った三成は、義弘に墨俣の渡しの守りを命じる。ところが、合渡に布陣していた三成家臣の杉江勘兵衛が討ち取られると、三成は大垣城への撤退を決めた。
義弘は、最前線の島津勢が墨俣に置き去りになってしまうため援軍を送り、島津勢が撤退するまで留まることを主張するが受け入れられず、部隊をあずけていた島津豊久の元へ退却の使者を遣わした。無事に大垣へ戻ることができたが、義弘らの三成に対する不信感は高まる。
そもそも墨俣に布陣していた島津勢に気づいていた東軍だったが、敢えて戦闘を避けたとも言われる。

また退却時に押川郷兵衛公近はわざわざ軍勢から離脱し、敵の首を取り大垣の太刀始めを挙げているのも、血の気の多い島津勢らしい行動だろう。


2017.8.14

治水神社の帰り、岡山(勝山)の山腹にある安楽寺に立ち寄った。





関ヶ原の戦い前日、徳川家康軍が美濃赤坂に着陣した際、この岡山に本陣を置いた。
着陣したばかりの家康本隊は、島左近・明石全登らの奇襲攻めに遭う。
この局地戦、杭瀬川の戦いを征した西軍は、その夜に軍議を開き、義弘が豊久を使いとして岡山への夜襲を進言したが、三成はそれを退け、大垣から関ヶ原へと展開し陣を布くことになる。

山頂付近にある関ヶ原合戦岡山本陣址の碑。




ちょっと時系を戻す。
家康本隊は岐阜城から美濃赤坂に向かう途中、島津勢から奇襲攻撃を受けている。

兵糧略奪を目的としていた川上久林らは、通りがかった東軍の荷駄を狙い奇襲をかけた。しかし抵抗が激しく、久林は略奪を諦め退却したのだが、この相手がたまたま家康率いる本隊だった。
井伊直政を従えた家康本隊は、島津家の釣り野伏にかかり、家康は自刃まで覚悟したともいう。

ちなみに、この久林の父は沖田畷の戦いに於いて、龍造寺隆信の首級を挙げた川上忠堅。