9/01/2021

大願寺跡石塔群・平佐北郷家墓地・兼喜神社


2021.8.10 (2)

大願寺は祁答院氏菩提寺で、開山堂跡と薬師堂跡から成る大願寺跡石塔群に、それぞれ歴代領主の墓塔がある。近年、大願寺の住職を室町幕府が任命する古文書が見つかり、京との結びつきがあったことが証明された。

開山堂跡には祁答院氏4代 行重、5代 重実の墓塔がある。



国道267号線をちょっと北上した薬師堂跡に祁答院氏7代 重茂、8代久重、9代 徳重、11代 重貴、12代 重武、13代 良重の墓がある。中央が12代 重武、左手前が13代 良重の墓塔。



大隅合戦で島津軍を岩剣城で迎え撃ったことで知られる祁答院良重。加治木城を攻めていた蒲生勢が救援に向かうも退けられ、それでも抵抗を続けた良重だったが岩剣城は落とされた。その後、虎居城に退き蒲生範清も島津貴久に降伏。そして1566年に良重が室 虎姫によって刺殺され、嫡子 重経を岩剣城の戦いで亡くしていた祁答院氏は13代で途絶えた。



薩摩川内市へ移動。泰平寺から川内川を隔てた平佐西小学校へ。

島津宗家4代忠宗の子 資忠を祖とする北郷氏は代々都城を領していたが、10代 時久が1595年の所領替えによって宮之城に移封された。3男 三久は平佐に封じられ、平佐北郷家を興し平佐城を居城とした。
その本丸跡は平佐西小学校の敷地になっていて、城趾之碑が線路側の門右手にある。




また平佐城の一部で東に位置する庵之城に三久が父 時久の菩提寺として、1596年に梁月寺を創建した。その跡地は平佐北郷家墓地になっている。

平佐北郷家の家紋 角丁子を施した門柱。



初代領主 三久の墓碑は祠に納められた五輪塔。三久は島津氏の小田原征伐、朝鮮出兵、庄内の乱に従軍。北郷氏宗家の長千代丸(12代 忠能)がまだ幼かったため家督代を務めた。



江戸で亡くなった11代 久敬の墓塔。杉並区の大圓寺にも五輪塔がある。




北郷宗家10代 時久に叛意を疑われた相久が無実を訴え、自刃した非業の死を哀れみ、弟の三久が御霊を勧請し若宮八幡を創建した。後に兼喜神社と改称、13代 久信によって再興された。



また相久の室 御屋地は島津義弘の娘で、後に豊州島津家の島津朝久と再婚している。