2022.1.30
木崎原合戦の敗戦後、衰退していった日向の伊東義祐が豊後に落ち延びると、島津歳久は伊東権頭玄蕃の元妻を側室として、梅君ヶ城(鶴ヶ城)に迎え住まわせた。
新納忠堅の娘で、梅と称したことから梅君ヶ城と呼ばれるようになったという。
1587年から1592年頃まで歳久が居城しているので、九州平定後に虎居城から移ったと思われる。後にその一部の曲輪に歳久を祀った平松神社が創建された。
説明板に興味深い記載があったので抜粋。「島津国史によれば、秀吉が曽木に向って出発後、秀吉の小姓が梅君ヶ城の屏風の絵を剥ぎ取って行ったことが分かり、歳久の命で鎌田因獄政金が返還交渉に出掛けた。秀吉はこれを聞き、絵を盗んだ小姓の指を斬り、絵と共に返したという。この事件から、秀吉が城に宿泊したことがわかる。」とある。
また第1の鳥居から左の道を行くと、遺構らしきものがあった。土塁というかほぼ土の壁。意図的な上部のくぼみは狭間のようでもあり謎。
県道51号線から200mほど入ったところにある太閤陣跡(鳶ノ巣陣)へ移動。
この陣は島津義久が泰平寺で降伏後、秀吉の大軍が平佐から移動し、前川を挟んだ梅君ヶ城で抵抗を続ける歳久の様子を伺うために築いた陣跡と伝わる。
また飯野から島津義弘が秀吉に拝謁のために訪れ、大隅国を安堵されている。一方の歳久は病気と称して、代わりに本田掃部助を伺候させた。
当時の秀吉は太閤ではなく関白だが、後世の1802年に石碑が建立されたのでそのようになったのだろう。
次は一宇治城跡へ向かう。
鎌倉時代の初め、伊集院郡司の紀四郎時清が一宇治城を築いて4代約130年の間居住した。その後、島津氏一族の久兼が伊集院姓を名乗り城主となる。
南北朝時代の伊集院氏5代 忠国は、島津氏一族の中で唯一南朝方につき一宇治城で挙兵、北朝方の島津氏と敵対し忠国から久氏、頼久、煕久と4代に渡り宗家を凌ぐ権勢を誇った。
1411年、島津氏7代 元久が病に倒れると、伊集院頼久が子の煕久を後継者に擁立し、それを阻止した久豊が島津氏8代当主に就き抗争が起こる。頼久の娘が久豊に嫁ぎ、化粧料として石谷の地が与えられ和睦が成立した。
しかし煕久が伊集院氏9代に就任すると、石谷の所領を巡って領主 町田高久を殺害。この報復に島津氏9代 忠国が一宇治城を攻め落とし、煕久の逃亡により世代を跨ぐ争いは終息した。
ちなみに伊集院忠朗や忠棟は、伊作家の島津忠良に従った煕久の弟 倍久の系統にあたる。
そして1536年、薩州島津家配下にあった一宇治城は、勢力を伸ばしつつあった島津忠良・貴久に攻められ落城。貴久は伊作城から移り、薩摩統一を果たして内城を築く1550年まで居城とした。
在城中の1549年にはフランシスコ・ザビエルと会見し、キリスト教の布教を許可したとされる。神明城跡にあるザビエル碑 。
城山公園として整備された一宇治城は、駐車場から中之城跡に通じる鉄砲階段が登城口になっているが、縄張り図からみても公園整備で破壊されたと言わざるをえない。
説明板によると「大手口は、伊集院氏時代は荒瀬の方であったが、島津氏が入ってからは犬之馬場の正面に変更された。」とある。釣瓶城に通じる堀底がそうなのだろうかと思いつつ、この辺りは道路が敷かれてて何とも言いがたい。
駐車場から階段を上がりきると、中之城と蔵跡の間にある井戸溝跡に出る。一宇治城に3ヶ所あった湧水の1つで、伊集院氏が居城の時に使用していたものと推定されるという。
中之城から南之城に通じる堀底。南側の曲輪群は堀が深く、各々独立した特徴がある。
一方、一宇治城の北側は斜面を活かした帯曲輪群が目立つ。その最上段にある神明城は、伊集院久親・忠親の父子が元寇に参陣し、神風によって撃退できた神恩に報いて神明神社を建てたことに名前が由来する。
展望台から望む伊集院市街地、その奥に桜島。
神明城の西側に設けられた伊作城との高低差を克服させる空堀。
本来、駐車場北側のスロープから上がるルートが登城口と思われる。右手に神明城を見上げ、いつの時代だかの石積みの痕跡がある。
2022.12.25
一宇治城跡から車で8分ぐらいの横手山円福寺跡。広済寺の末寺だったここにひっそりと伊集院忠国の墓がある。
1608年、島津氏18代 家久は琉球を服属させるため、広済寺の雪岑を琉球に派遣している。しかし交渉は決裂、翌年に琉球出兵となった。
伊集院忠国の墓に並んで雪岑の墓があるというがよくわからない。