1/22/2024

島津忠辰供養塚・三百塚・薩州島津家の墓 (2)・島津忠兼の墓


2023.12.28 (2)

1587年、豊臣秀吉が九州平定に乗り出し肥後八代まで侵攻してくると、肥後高田を守っていた薩州家7代 島津忠辰は、有馬晴信の寝返りにより出水まで退却した。
そして秀吉に降伏し朱印状が与えられ本領を安堵されると、忠辰は和泉を名乗り島津本宗家から独立を計る。文禄の役では島津義弘配下の陣立に不服を申し立て、さらに病を理由に上陸を拒んだ。この行動は秀吉の怒りをかってしまい、出水を改易となり陣中で病没したため、薩州島津家は断絶となる。

朝鮮から帰国した家臣たちは、持ち帰った忠辰の遺骨を丁重に葬った。その場所が県道374号線(薩摩街道出水筋)の山内農園を入ったところにあり、現在は供養塚として残る。



また改易により行き場を失った薩州氏の家臣たちは、忠辰の遺骨を葬ったあと切腹し殉死を遂げた。そこに築かれた三百塚。



出水城の一郭だったといわれる上高城跡に、出水5万石を約140年治めた薩州島津家の墓地がある。
玉垣の正面、薩州家初代 島津用久(右側)の墓塔。



その右側には2代 国久から7代 忠辰の墓塔が並ぶ。

薩州家2代 国久。一時は島津氏10代 立久の後嗣に定められるが、忠昌が誕生したことにより解消された。後に対立関係になった2人は、国久が加世田の別府城を攻め攻略している。



薩州家5代 実久は島津氏15代 勝久の姉を室とし、本宗家を凌ぐ勢力を持つと一時は守護職に就いたという見解もある。しかし島津忠良、貴久に敗れ別府城を失い、以降は島津宗家を継いだ貴久に従った。



薩州家6代 義虎は島津氏16代 義久の娘 於平を正室に迎え、子に薩州家7代となる忠辰のほか、島津歳久の婿養子になる忠隣をもうけた。



薩州家7代 忠辰の墓塔。




薩州家2代 国久が建立した薩州島津家菩提寺である龍光寺へ。隣接する民間墓の一画に、島津忠兼の墓(イボの神様)と伝わる石塔がある。



実久の弟で野田城主の忠兼は、肥後国長島を攻め領地を拡げた。しかし義虎に讒言するものがあり、1565年に出水亀ヶ城に招かれた忠兼は中門で騙し討ちにあう。一時は逃れたが外城後門で自害した。
その後、出水で怪異があり、野田や長島では多くの死者を出す悪疫が流行し人々が忠兼の祟りと噂したので、若宮神社を建立して祀り、自害した場所に六地蔵塔が建てられた。いつしかイボの神様として崇められるようになったという。


1/14/2024

山田昌巌灰塚・出水麓武家屋敷群・出水御仮屋門


2023.12.28 (1)

前日に帰省し翌朝から出水を再訪。
国道447号線沿いに案内看板があり、それに従っていくと山田昌巌の灰塚がある。山田有栄は仏門に入り昌巌と名を改め、晩年を過ごした萩之段で亡くなった。そして火葬されたこの地に灰塚が建立されている。



一時は豊臣政権の直轄地になっていた出水は、慶長の役の恩賞で島津氏へ返還されると、出水地頭に本田正親、有栄は福山地頭に任じられる。そして上方で関ヶ原合戦に繋がる不穏な動きが起こり、兵の集まらない状況下に主君の一大事として福山衆を引き連れ、島津義弘のもとへ急ぎ馳せ参じた。その合戦では退き口を敢行し薩摩への帰路、食料難に苦しむ一行に有栄は所持していた金細工が施された刀の鞘を食事の代金にあてた。かねてより難事の時に備えていたもので、また金を煎じると毒消しに有効と信じていたためだという。

1629年、昌巌は樺山久高の後任で3代目出水地頭に任命された。しかし転任を望まない福山の家臣たちは藩主 島津家久に懇願し、特例で15人だけ出水への移住が許される。出水麓武家屋敷群の山口邸が昌巌の屋敷跡といわれ、山崎馬場に家臣の屋敷も配置された。また出水兵児の教育や産業振興にも力を注いだ。



江戸時代初期、薩摩藩は出水が国境に位置することから、出水城麓に藩内から武士を集め住まわせ肥後からの侵攻に備えた。現在まで整備されることが少なかった武家屋敷群が残っている。

税所邸の武家門。



この出水麓武家屋敷群で公開されている税所邸にて、出水城と木牟礼城の城郭符セットと「山田昌巌翁伝と児請」という冊子を購入。



家屋の造りについていろいろ説明して頂いた。囲炉裏横には非常時に子供や女性を逃がす抜け道があり、決して主人が逃げるためではないと仰っていた。



また興味深かったのが天井を一段高くした造り。雨天時に弓矢の練習をするためとのこと。部屋を跨いで奥が弓的場になっている。



出水麓仮屋跡の出水小学校に現存する御仮屋門。島津義弘が隠居先と定め、帖佐館から移築されたというが実現はしなかった。