2023.12.30 (4)
島津氏12代 忠治の墓所跡でもある仏智山津友寺跡。参道には仁王像が残されている。
吉田氏14代 位清は島津氏に叛き吉田松尾城に立てこもると、島津氏12代 忠治はこれを攻めた。陣中にあった忠治が1515年に亡くなり、弟の忠隆が引き継ぎ攻めたて位清は降伏、薩州家を頼って出水へ向かう途中だったが自害したという。
忠治が葬られた了心寺は津友寺と改められ昔提寺となった。1975年、福昌寺跡墓地に改装され、現在は墓所跡として保存されている。
まだ日没まで時間があったので、蒲生城跡の奥に築かれた荒平新城曲輪群を目指す。駐車場の説明看板が新調され、本丸跡の標柱が新たに設けられていた。
本丸曲輪群、馬場跡を抜けた土橋の先が倉ノ城跡になる。
右にまわり込む道を進む。倉ノ城跡を右側にみた切岸。
土矢倉城跡へ通じる枡形虎口。
切り通しを抜ける。
右側に土矢倉城跡の虎口がある。
1554年に岩剣城を落とした島津氏15代 貴久は、支城の北村城を1556年に陥落させると蒲生城攻めにとりかかる。吉田衆が土矢倉に忍び入り番衆4人を打って番屋に火を掛けたという。
曲輪にある山神祠と土塁。
蒲生城攻めに従軍した赤塚源太左衛門は、島津氏に仕え各地を転戦、1595年に蒲生城の守りを任された。また関ヶ原合戦前、人質の宰相殿に共したほど信頼が厚く、敗戦後に適中突破を成した島津義弘らと合流して薩摩に戻った。そして徳川方の進行に備えて荒平新城の増築を命じられ、その新城御番を1610年まで務めている。
土矢倉城跡から下る城道が延びる。これに面する曲輪群が荒平新城といわれるが、藪化で遺構らしいものは判断できなかった。
荒平新城からみた土矢倉城跡へ通じる虎口。