2017.1.2
島津忠久に関する書物を読んでいると、鶴岡八幡宮がちょいちょい出てくる。
鎌倉幕府第3代将軍 源実朝が雪中暗殺された場所としても知られ、歴史もかなり古く、比企谷妙本寺と島津忠久の墓巡りがてら寄ることにした。
初詣の群衆を横目に、一目散に祈祷受付へ。朱印帳を書いてもらい道なりに歩くと、一際目を引く境内社の白旗神社に導かれる。唐破風が突出した造り。なんの前知識もなく、適当に何枚か写真を撮った。
後日調べたところ、北条政子によって創建され、頼朝と実朝を祀る黒塗りの社殿は、武衛殿と呼ばれるものらしい。扁額が掲げられ、これが島津久光の筆と伝えられているんだとか。
斉彬を異母兄とする久光は、当主の地位にこそ就いていないが実質上、当時の薩摩藩で実権を握っていた人物。
初詣のついでなのか、源頼朝の墓へ向かう人もチラホラ。麓までくるとまた白旗神社が…。ウィキペディアによると、日本全国に70社はあるらしい。
その白旗神社を左に、源頼朝公顕彰碑を右にして階段を上がると、正面に源頼朝の墓「頼朝公御石塔」。香炉には島津家の家紋が。
すぐ右手に島津忠久の供養塔が建っていた。
「元祖島津豊後守忠久石塔道」と書いてあるので供養塔というより石標。
しかし斜めってるのがすごく気になる。
この辺りは1779年、第25代藩主島津重豪が忠久の墓を建立した際、頼朝の墓塔も整備したといわれている。
石標に従い、右奥手の岩肌の道を上がり忠久ら三公の墓へ。
左から毛利季光、大江広元、島津忠久の順に墓が並ぶ。
こんな所になぜ島津家と毛利家の墓が?という疑問は、この山林一帯を島津家と毛利家が所領していたからということらしい。
ここから右を見下ろすと、三公の墓に繋がる2本の石段があった。現在の正規ルートではないっぽい。
一回麓の白旗神社まで下りて、石段の方に迂回し参拝し直すことにした。
忠久の墓への石段。
薩摩藩は天保年間に、旧参道(源頼朝の墓側)ではなく山裾から忠久の墓へ行けるように墓地参道が整備された。山裾になにやら石碑があり、碑文から忠久から忠義までの名前が確認できるが、よく読み取れない。
その横には鎌倉御墳墓調査に尽力した、長州藩士 村田清風の句碑が建立されている。
今ではメインになっているこっち石段は、後に長州藩が石灯籠と共に築いたもの。
各石段を上がると開けた広場に出る。鎌倉幕府第2代執権北条義時の法華堂跡地。
標記がないやぐら状の墓は、鎌倉幕府の内乱 宝治合戦で滅亡した三浦泰村一族の墓。
法華堂跡奥にさっきの2本の石段があり、右の鳥居の無い方が忠久の墓へ、左を行くと毛利季光、大江広元の墓へ通じる。
石段を上がると途中に平場があり、結局はどちらでも辿り着けるんだけど。
石段が2本あるのは不可解。鎌倉市役所のホームページによると、島津久光が忠久の墓に詣でたとき、「手前の大江広元の墓の前で供の者が待機するのは神慮に不敬。」ということで、墓に通じる石段を新設したという。
一番右が島津忠久の墓。
どの墓も岩をくり抜いたやぐら状だが、忠久とその他ではちょっと違う気がする。年代が違うのだろうか。