2017.4.3
丹後局の逸話が残る小町神社方面には、愛甲三郎季隆の所縁の物もいくつかあるのでまわる。
季隆といえば、二俣川の戦いで畠山重忠を射倒したことでも知られる弓矢の名手。
小田急線の愛甲石田駅から、愛甲三郎館跡は情報だと歩いて行ける距離だったけど、なかなか見つけることができない。親切な地元の方々に道案内してもらってやっと辿り着けた。
距離的にもバスで東名高速道路を横断し、愛甲橋を利用した方がいいと思う。
上愛甲公民館横の敷地にある小さな神明神社と館跡の碑。
館跡から徒歩5分ぐらいの宝積寺には、季隆の供養塔または墓とされる五輪塔がある。
上っ面な知識と下調べの甘さは否めないが、この辺りは一貫して道案内板や墓の配置図的なのが一切ないのに不満を覚えた。結局何が何だか分からず小町神社に向かう。
神奈中バスを利用し小野宮前で下車すると、山の頂に赤い屋根が見える。あれが小町神社かぁ、と思いつつも山頂までは階段を上がるしかない。
鳥居まで来たらもう少し。
源頼朝の子を身ごもった丹後局は、正室の北条政子から嫉妬をかったことは前回触れた。
政子は畠山重忠に由比ヶ浜で首をはねるように命じる。さらに重忠から命じられた家臣の本田次郎だったが、密かに丹後局を難波へ逃がしたという。
これが住吉大社で惟宗忠久を産んだ話しに繋がってくるとなると、以前訪れた上矢部の丹後山神明社説はほぼ否定されることになる。
また一方で、季隆が丹後局をかくまって、小町神社辺りの山里に住まわせたとの言い伝えがこの地に残っている。
難を逃れた丹後局だったが、政子の呪いか精神的苦痛からか、一夜にして白髪になってしまったという。小町神社の祭神である小町姫に数日間祈願し続け、白髪が元の黒髪に戻ったんだとか。
頂上には本殿ほか小町塚、小町竹、片葉松跡があった。
本殿からの景色。
既述の丹後局を逃した本田次郎なる人物は本田次郎親恒(近常)か?
忠久は島津荘守護職に就くと、本田親恒を任地に下向させ木牟礼城を築かせている。薩摩国の守護所となって先住各氏族との抗争を繰り返し平定していくのだが、後々島津氏在地統治の足掛かりにもなっていく重要な拠点となった。
忠久は島津荘守護職に就くと、本田親恒を任地に下向させ木牟礼城を築かせている。薩摩国の守護所となって先住各氏族との抗争を繰り返し平定していくのだが、後々島津氏在地統治の足掛かりにもなっていく重要な拠点となった。
1196年、忠久は本田貞親(畠山重忠の末子で親恒の養子)を従え薩摩に下る。貞親は忠久が鎌倉に帰った後も木牟礼城で守護被官として政務を執行した。
1203年、比企能員の変が起こり忠久は縁者とし守護職を収公。10年後に忠久が薩摩国地頭職に復権すると、貞親は大隅国守護代に任ぜられる。清水城を本田家の本拠地とし島津家に仕えた。
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