2017.5.1
自宅から関越自動車道を使い、1時間半弱で花園ICに着いた。まず埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園を目指す。
畠山重能が秩父から移り住み、1164年(長寛2年)に二男として重忠が産まれた場所と伝わる畠山館跡。
現在は公園として整備されているが、墓石や石碑が集中していて、見学するには敷地面積的にも大して時間を費やさなかった。
一ノ谷の戦いで、源義経の奇襲「鵯越の逆落とし」で愛馬三日月を背負って崖を下りる姿の重忠公之像。
しかし残念ながら実際は源範頼の下、西の手攻めに回っていて鵯越えには加わっていないのが通説。
重忠とその家臣の墓といわれる五輪塔六基が築造された覆屋の中に納められている。
正面の一番高い五輪塔が重忠、左側が本田親恒の墓と伝わる。
椎ノ木の根元にある自然石が父 重能の墓と伝わる。
ここから満福寺と井椋神社は程近い。
重忠が再興し菩提寺とした満福寺は、本堂のほか別棟の観音閣やそこそこ古い時代の墓石群、一般の墓地などから成る。
山門の先に本堂。
左に向かうと、観音閣とその右奥にある重忠廟の碑がある。
満福寺の裏手の荒川沿いに鎮座する井椋神社へ。
鳥居横にあった看板から抜粋すると、「井椋神社は畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祠)したものである。」
境内には複数の神社が合祀されている。
鶯の瀬は社殿裏の川沿いにある。重忠が岡部六弥太(榛沢成清の説もある)のもとに行き、帰路雨で水嵩が増した荒川を渡れずにいると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたんだとか。
この日も雨。ちょうどこの辺りだったのだろう。
雨も本降りになってきたので、重忠が居住したとされる菅谷館跡へ移動。車で30分ぐらいだったか。
敷地内の「埼玉県立嵐山史跡の博物館」で時間を潰しても雨が止む気配がないので、仕方なく外へくり出す。
土塁や空堀、廓は後の戦国時代に拡幅された複郭式の平城跡で、発掘された遺構や遺物も重忠時代のものではなく、実は重忠の館だった裏付けもないらしい。また、戦国時代は小田原北条氏の外城だったとする説まである。
いずれにせよ菅谷館から134騎を引き連れ鎌倉へ出立、途中の二俣川の戦いで討たれてしまう。
本廓。この辺りに重忠の館があったのか...と空想するしかない。
ニノ郭にある畠山重忠公像。