5/29/2017

大蔵館跡・源義賢之墓


2017.5.6

この日も梅ヶ丘で用事を済ませ、大蔵館跡と源義賢之墓に行くことにした。先日、埼玉の嵐山を訪れたばかりだけど、世田谷にも存在するらしい。

小田急線成城学園前から、玉07系統のバスを乗継ぎ永安寺前で下車。永安寺に立ち寄り、大蔵館跡に建てられた大六天社を目指す。
大六天社辺りの東名高速に架かる大六天橋、大蔵六丁目公園一帯の高台が源義賢の居館とされる大蔵館だったとの伝承があるとか。




後の大永年間には石井良寛が館を築き移り住んだ場所でもあり、大六天社は良寛を祀ったもの。今でも石井さん宅の表札があちらこちらにあって、おそらく一族の末裔かと思われる。

当の大六天社は調べてわかったんだけど、仙川沿いのゴルフ場駐車場奥に移転されていた。散々探してもある訳ない。追いやられた感が切なかった。



義賢の墓といわれる大将塚は、氷川神社を左に曲がり100mぐらい歩くと右手の民家敷地内にある。

 

5/21/2017

豪徳寺


2017.5.2

梅ヶ丘で用事があったので隣駅の豪徳寺まで行ってみた。豪徳寺は、江戸における井伊家の菩提寺で井伊直弼の墓もあるみたい。

梅ヶ丘から歩いて行くと、裏手の開祖堂側に出る。こっちは非公開ゾーンのため真裏の山門まで回らないといけない。
東側にある門も閉ざされている。



山門。


1480年創建。1584年に泉岳寺の門奄宗関和尚が中興開山し、1633年に井伊直政の次男 直孝が井伊家の菩提寺として整備した。

かつて井伊家と島津家は、関ヶ原の戦いで一戦交えている。
島津義弘が敢行した敵中突破「島津の退き口」を阻んだ徳川四天王の井伊直政。島津軍は義弘を薩摩へ帰すべく、川上忠兄の元で参陣していた柏木源藤の放った銃弾が直政の右腕を貫いた。
義弘は追撃を振り切り、飢えや落武者狩りに遭いながらも薩摩に戻れたわけだが、直政は傷を負わされたにも関わらず、島津家存続のための戦後処理に尽力した。憎むべき島津のはずなのに。合戦から1年半後には、その時の傷が原因で命を落としている。


山門を抜けると右手に梵鐘、左手に三重塔、正面に仏殿を配置。





仏殿から反時計回りに裏へ回り受付で御朱印を頂いた。




仏殿の裏に構える本堂。



納骨堂横の赤い門をくぐると招猫殿へ通じる。



招猫殿を抜けると正面にさっき見えた三重塔、右へ進むと彦根藩主井伊家墓所。
一般墓地が隣接されているけど、配置図が掲示されているので迷わず井伊直弼の墓へ辿り着くことができた。

 

5/14/2017

大蔵館跡・源義賢之墓・鎌形八幡神社・班渓寺


2017.5.1

目的地を予定より早く回れて夕暮れまで全然時間があるので、木曽義仲の生誕地である嵐山まで回ることにした。


まずは義仲の父 源義賢が居住したとされる大蔵館跡へ向かう。
しかしナビ通りに目指すけどなかなか辿り着けない。半ば諦めかけ、とりあえず周辺に車を停め大蔵神社を参拝することにした。諦めも肝心、鳥居を潜ると左側に大蔵館跡の説明書きの看板があった。
現在は、総称が大蔵神社の神社合祀となっている。



相模国鎌倉の源義朝と武蔵国大蔵の源義賢との同族勢力争いが大蔵合戦へ発展。源義平が大蔵館を襲撃し、叔父にあたる義賢と秩父重隆らを討ち取った。
その時捕らえた駒王丸(後の木曽義仲)を殺すよう命じられた畠山重能だったが、斉藤実盛に託し信濃国木曽谷へ逃がしたという。

この大蔵館跡はこれまで幾度も発掘調査が行われた結果、源義賢の時代、鎌倉街道大蔵宿の繁栄時期、大館の普請が行われた時期と、大きく三期に分けて解釈されている。



大行院向かいに標石があり、畑を抜けると義賢の墓が現れる。

 



この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存で空輪部と地輪部は後から補われたもの。風輪部は欠損したままになっている。



義賢は武蔵国大蔵に館を構える一方、鎌形に下屋敷を築いて小枝御前を住まわせた。そして産まれたのが駒王丸、のちに旭将軍と呼ばれる木曽義仲である。

創建が平安時代初期といわれる鎌形八幡神社。



説明書きによると、拝殿が覆屋となって中に本殿がある造りになっているとか。



拝殿下には、義仲の産湯に使われたと伝わる湧き水が現在でも湧き出ている。




義仲の嫡子 源義高は、源頼朝の命を受けた堀藤次に入間川原で斬られた。彼の菩提を弔うために母である山吹姫(妙虎大姉)が創建した班渓寺。



1184年(寿永3年)、義仲が源義経に討たれたとき義高は人質として鎌倉にいた。身の危険を感じた義高は、武蔵国大蔵を目指し鎌倉を脱す。しかし既述のように追っ手に討たれてしまった。

境内には山吹姫之墓もある。



また、山門を入って右手の竹やぶが木曽殿館跡と伝わるらしいのだが、地元の人が言うには3年ぐらい前に看板は撤去されたらしい。館跡がただの風聞だったのか、裏付けがないのかわからないけど気になる。

 

5/05/2017

畠山重忠公史跡公園・満福寺・井椋神社・菅谷館跡


2017.5.1

自宅から関越自動車道を使い、1時間半弱で花園ICに着いた。まず埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園を目指す。

畠山重能が秩父から移り住み、1164年(長寛2年)に二男として重忠が産まれた場所と伝わる畠山館跡。
現在は公園として整備されているが、墓石や石碑が集中していて、見学するには敷地面積的にも大して時間を費やさなかった。

一ノ谷の戦いで、源義経の奇襲「鵯越の逆落とし」で愛馬三日月を背負って崖を下りる姿の重忠公之像。
しかし残念ながら実際は源範頼の下、西の手攻めに回っていて鵯越えには加わっていないのが通説。



重忠とその家臣の墓といわれる五輪塔六基が築造された覆屋の中に納められている。



正面の一番高い五輪塔が重忠、左側が本田親恒の墓と伝わる。



椎ノ木の根元にある自然石が父 重能の墓と伝わる。




ここから満福寺と井椋神社は程近い。

重忠が再興し菩提寺とした満福寺は、本堂のほか別棟の観音閣やそこそこ古い時代の墓石群、一般の墓地などから成る。

 

山門の先に本堂。
  


左に向かうと、観音閣とその右奥にある重忠廟の碑がある。





満福寺の裏手の荒川沿いに鎮座する井椋神社へ。

鳥居横にあった看板から抜粋すると、「井椋神社は畠山氏の先祖である将恒から武基、武綱、重綱、重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祠)したものである。」

境内には複数の神社が合祀されている。



鶯の瀬は社殿裏の川沿いにある。重忠が岡部六弥太(榛沢成清の説もある)のもとに行き、帰路雨で水嵩が増した荒川を渡れずにいると、鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたんだとか。



この日も雨。ちょうどこの辺りだったのだろう。




雨も本降りになってきたので、重忠が居住したとされる菅谷館跡へ移動。車で30分ぐらいだったか。
敷地内の「埼玉県立嵐山史跡の博物館」で時間を潰しても雨が止む気配がないので、仕方なく外へくり出す。



土塁や空堀、廓は後の戦国時代に拡幅された複郭式の平城跡で、発掘された遺構や遺物も重忠時代のものではなく、実は重忠の館だった裏付けもないらしい。また、戦国時代は小田原北条氏の外城だったとする説まである。

いずれにせよ菅谷館から134騎を引き連れ鎌倉へ出立、途中の二俣川の戦いで討たれてしまう。



本廓。この辺りに重忠の館があったのか...と空想するしかない。



ニノ郭にある畠山重忠公像。