2017.5.1
目的地を予定より早く回れて夕暮れまで全然時間があるので、木曽義仲の生誕地である嵐山まで回ることにした。
まずは義仲の父 源義賢が居住したとされる大蔵館跡へ向かう。
しかしナビ通りに目指すけどなかなか辿り着けない。半ば諦めかけ、とりあえず周辺に車を停め大蔵神社を参拝することにした。諦めも肝心、鳥居を潜ると左側に大蔵館跡の説明書きの看板があった。
現在は、総称が大蔵神社の神社合祀となっている。
相模国鎌倉の源義朝と武蔵国大蔵の源義賢との同族勢力争いが大蔵合戦へ発展。源義平が大蔵館を襲撃し、叔父にあたる義賢と秩父重隆らを討ち取った。
その時捕らえた駒王丸(後の木曽義仲)を殺すよう命じられた畠山重能だったが、斉藤実盛に託し信濃国木曽谷へ逃がしたという。
この大蔵館跡はこれまで幾度も発掘調査が行われた結果、源義賢の時代、鎌倉街道大蔵宿の繁栄時期、大館の普請が行われた時期と、大きく三期に分けて解釈されている。
大行院向かいに標石があり、畑を抜けると義賢の墓が現れる。
この五輪塔は、火輪部と水輪部のみ残存で空輪部と地輪部は後から補われたもの。風輪部は欠損したままになっている。
義賢は武蔵国大蔵に館を構える一方、鎌形に下屋敷を築いて小枝御前を住まわせた。そして産まれたのが駒王丸、のちに旭将軍と呼ばれる木曽義仲である。
創建が平安時代初期といわれる鎌形八幡神社。
説明書きによると、拝殿が覆屋となって中に本殿がある造りになっているとか。
拝殿下には、義仲の産湯に使われたと伝わる湧き水が現在でも湧き出ている。
義仲の嫡子 源義高は、源頼朝の命を受けた堀藤次に入間川原で斬られた。彼の菩提を弔うために母である山吹姫(妙虎大姉)が創建した班渓寺。
1184年(寿永3年)、義仲が源義経に討たれたとき義高は人質として鎌倉にいた。身の危険を感じた義高は、武蔵国大蔵を目指し鎌倉を脱す。しかし既述のように追っ手に討たれてしまった。
境内には山吹姫之墓もある。
また、山門を入って右手の竹やぶが木曽殿館跡と伝わるらしいのだが、地元の人が言うには3年ぐらい前に看板は撤去されたらしい。館跡がただの風聞だったのか、裏付けがないのかわからないけど気になる。
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