5/28/2018

心岳寺跡・越前(重富)島津家墓地 (1)


2018.4.7

国道10号線を北上すると、左側に赤い旗が目印の心岳寺跡(平松神社)がある。
通り過ぎたすぐ先に車が2、3台停めれる路肩に駐車。
これを見逃すと、対向車線が中央分離帯で仕切られいるのでUターン不可。もちろん南下するルートではたどり着けないので注意。

心岳寺は、島津歳久が最期を迎えた場所であり、菩提を弔うために島津義久が1599年に建立したお寺。
廃仏毀釈で廃寺になり、現在は平松神社が建立されている。



JR日豊線沿いの鳥居をくぐり、石段を上がると社殿がある。



1587年、当主 義久が九州征伐で豊臣政権に降伏した一方、歳久は居城の虎居城に立てこもり抗戦を示した。豊臣秀吉が帰路の際、虎居城への宿泊要請に対しても拒否。さらに暗殺を画策し、家臣に秀吉の乗る駕籠へ矢を射させている。

1592年の朝鮮出兵(文禄の役)には、中風を患い出陣できずにいたが、梅北国兼が朝鮮出兵の不満から起こした梅北一揆に歳久の家臣が多く加担していた。
秀吉の怒りは収拾がつかなくなり、義久に歳久追討命令を出す。義久は歳久を宮之城から鹿児島へ呼び、秀吉に従い命令を下した。歳久は宮之城での自害を決意して夜舟で脱す。しかし追手の町田久倍、伊集院久治らに退路を阻まれ、逃れられない歳久は竜ヶ水に上陸し、原田甚次の介錯により自刃した。
追手といっても形ばかりで、歳久に誰も手を出せなかったという。義久の弟とはいえ、それだけ慕われていた証しだろう。

また、残された武功が少なく感じるのも事実。後に天下を取る秀吉の反逆者として、その功績が消された可能性も否定できない。


歳久の墓はこの終焉の地、平松神社社殿裏手にある。囲垣は崩壊寸前。



横には殉死した27名他の墓石が並ぶ。




次はさらに北上し、いよいよ3度目のリベンジ、岩剣城跡の登頂を目指す。しかし、天候の不安が的中、結構な雨。とりあえず車の中で食事をとり、越前(重富)島津家の墓地を先に廻ることにした。その間に雨もあがる。

この墓地には、再興後16代から23代までの当主とその家族が葬られている。
もとは越前島津家の菩提寺である紹隆寺が建立されていたが、廃仏毀釈によって破壊され墓地のみが残った。



越前島津家は、島津忠久の次男 忠綱を祖とする。忠久は薩隅日三州のほかに越前国(現在の福井県)守護職も兼ねていて、忠綱がその守護代として赴任したことにより、越前島津家は創まった。
越前島津家2代 忠行から所領を播磨国に移し、それ以降、15代 忠長まで続いていたが、1534年に起こった朝日山の戦いで忠長が戦死し、越前島津家は途絶えた。

それから約200年後の1737年、島津氏22代 島津継豊の弟 忠紀によって越前島津家は再興される。越前国の故地、重富の地名をここに移して、重富郷を置いたことにより重富島津家といわれるようになった。

また説明板の系図を見ると、島津忠教(後の久光)と子の忠鑑(珍彦)の名が。気になって調べてみたところ、忠教は島津忠公の娘と婚姻し、婿養子に入り家督を継いだんだとか。

越前島津家が再興されると、平松館が再建され越前島津家の居館となっている。平松館は岩剣城があまりにも不便で、当時の城主 島津義弘が麓に築いた館だったとこ。忠教も当時は鶴丸城から移り住んだという。


越前島津家を再興した16代 島津忠紀の墓。

 

5/06/2018

福昌寺跡・本立寺跡


2018.4.7

福昌寺は、1394年に7代当主 島津元久によって創建され、代々島津家の菩提所となった寺院。6代から28代までの島津家歴代当主、その夫人の墓石などがある。

かつては日本三大僧録所といわれた巨大寺院で、1500余人の僧侶がいて、その末寺は中国・四国地方にまで広がっていたという。三国名勝図会に挿図されたこの辺り一帯の景観は、広大な敷地に建物が回廊で結ばれていた様子も伝えている。



1869年、例に漏れず廃仏毀釈で廃寺となった。現在は墓石群を残し、跡地には玉龍高校が建てられている。

 


中に入ると、神秘的荘厳な空気が漂い、あまりにも現実離れした空間だった。
門を入ってすぐの階段の先は24代 島津重年、25代 島津重豪、26代 島津斉宣の墓へ通じる。



中央の広い階段の先には鳥居が見える。



この階段を上がり、鳥居の先が島津久光の墓。島津忠義の後見人として藩政を担った国父の久光は、どの当主よりも目立つ位置にある。



向かって左の区画には、6代 島津氏久・師久、9代 島津忠国~14代 島津勝久、18代 島津家久~23代 島津宗信、28代 島津斉彬、そして各夫人の墓石。27代 島津斉興と由羅の墓は、さらに別に区画されている。

6代当主が氏久と師久になっているのは、南北朝時代の島津家5代当主 島津貞久が大隅国守護職を氏久(奥州家)に、薩摩国守護職を師久(総州家)にそれぞれ家督を譲ったことによる。その後、氏久の子 元久が薩摩・大隅・日向の守護職に補任し、清水城の築城や福昌寺を創建した。


大隅6代 島津氏久の墓。



薩摩6代 島津師久の墓。



主に戦国時代の当主、夫人の墓石があるエリアには、門を出てさらに奥の区画に行く必要がある。15代 島津貴久とその後を継いだ島津兄弟らの宝篋印塔が建ち並ぶ。



その中で大量の五輪塔がひと際目を引く、7代当主 島津元久(左)及び8代当主島津久豊(右)の墓。



右横の由緒墓の区画内には関ヶ原の戦いで、島津義弘の身代わりになった阿多長寿院盛淳の墓石もあった。




福昌寺跡から車で10分ほど移動。住宅街の一画にひっそり残されている清水山本立寺跡(清水御墓)へ。ここには、初代 島津忠久から5代 島津貞久までの五輪塔がある。

地理的に、清水城以前に島津氏が居城していた東福寺城にも近い。




左から5代 島津貞久、3代 島津久経、初代 島津忠久、2代 島津忠時、4代 島津忠宗。この五輪塔は、南北朝期以前の特長を有しているといわれている。

また説明板によると、5人とも戒名に道がつくことから五道院といわれていたが、19代 島津光久の時代に寺名を本立寺と改めたとある。本来の墓は出水にあり、本立寺は鹿児島における廟堂とみられている。

また、歴代墓石塔の右側にある御石塔の由緒はわかっていない。

 

5/04/2018

旧島津氏玉里邸庭園・常安御墓


2018.4.7

帰省2日目は、実家から岩剣城への道すがら各所島津家所縁の地を車で廻る。しかし島津雨具合が気になる。
まずは旧島津氏玉里邸庭園へ。

1835年に、第27代島津家当主 島津斉興が造営した別邸。現在は黒門から鶴の池、茶室までの下御庭と呼ばれたエリアを見学することができる。入園は無料。
当時は広大な主屋建築群だったが西南戦争で焼失、1879年に島津久光によって再建された。斉興の後も久光が晩年を過ごしたと言われる。
しかし、主屋建築群は太平洋戦争で再び焼失。現在、主屋跡は鹿児島女子高等学校の敷地になっていて、上御庭がグランドの片隅に見える。

説明板に掲示されている太平洋戦争以前の玉里邸見取り図。



入口となっている黒門は、1887年に久光が亡くなり国葬時に出棺のため、短期間でわざわざ造らせたもの。同時に黒門から700mに及ぶ国葬道路も整備され、福昌寺へ移送された。



鹿児島工業高等高校前に建つ国葬道路の碑。



黒門を入って茶室を望む風景。



中央右に見えるナゾの巨石は、もともと磯の海中にあったもので、53個に分解しここに運び込まれたと伝えられている。柱穴が残されていることから、祠が祀られていたと考えられているが、詳しいことはわかっていない。


書院造の茶室。



茶室から見た鶴の池。
 



江戸時代の水道施設である水道高桝が3基現存。水路を地中に埋設し、圧力給水方式の水道で、当時としては全国唯一のものだった。



いろんなタイプの石灯籠があるのも特徴的。



西南戦争、第二次世界大戦時の焼失を逃れ、鹿児島女子高等学校内に移築された旧島津氏玉里邸長屋門。




旧島津氏玉里邸庭園から城山に寄り道をして、上竜尾町の常安御墓へ。普通に直接向かえば車で15分ぐらいか。すぐ近くに常安団地下というバス停があるので、バスで行くことも可能。

明治政府が発令した神仏分離令により 、島津忠義が福昌寺を廃して、常安の峯に開いた常安御墓。城郭並みの石垣が組まれた丘の上に門があるが、御墓略図はもちろん看板さえない。
御陵を模した土饅頭型の塚を特徴とし、忠義以降の島津家当主やその家族が眠る。



門を入って左奥に忠義の墓がある。




両脇には、灯籠とおびただしい数の献燈。

 
 

常安御墓、この後に行く福昌寺跡や本立寺跡の御墓略図については、磯島津家・玉里家 御墓概要という冊子があるので参考にするとわかりやすい。尚古集成館などの物販で購入できる。