5/06/2018

福昌寺跡・本立寺跡


2018.4.7

福昌寺は、1394年に7代当主 島津元久によって創建され、代々島津家の菩提所となった寺院。6代から28代までの島津家歴代当主、その夫人の墓石などがある。

かつては日本三大僧録所といわれた巨大寺院で、1500余人の僧侶がいて、その末寺は中国・四国地方にまで広がっていたという。三国名勝図会に挿図されたこの辺り一帯の景観は、広大な敷地に建物が回廊で結ばれていた様子も伝えている。



1869年、例に漏れず廃仏毀釈で廃寺となった。現在は墓石群を残し、跡地には玉龍高校が建てられている。

 


中に入ると、神秘的荘厳な空気が漂い、あまりにも現実離れした空間だった。
門を入ってすぐの階段の先は24代 島津重年、25代 島津重豪、26代 島津斉宣の墓へ通じる。



中央の広い階段の先には鳥居が見える。



この階段を上がり、鳥居の先が島津久光の墓。島津忠義の後見人として藩政を担った国父の久光は、どの当主よりも目立つ位置にある。



向かって左の区画には、6代 島津氏久・師久、9代 島津忠国~14代 島津勝久、18代 島津家久~23代 島津宗信、28代 島津斉彬、そして各夫人の墓石。27代 島津斉興と由羅の墓は、さらに別に区画されている。

6代当主が氏久と師久になっているのは、南北朝時代の島津家5代当主 島津貞久が大隅国守護職を氏久(奥州家)に、薩摩国守護職を師久(総州家)にそれぞれ家督を譲ったことによる。その後、氏久の子 元久が薩摩・大隅・日向の守護職に補任し、清水城の築城や福昌寺を創建した。


大隅6代 島津氏久の墓。



薩摩6代 島津師久の墓。



主に戦国時代の当主、夫人の墓石があるエリアには、門を出てさらに奥の区画に行く必要がある。15代 島津貴久とその後を継いだ島津兄弟らの宝篋印塔が建ち並ぶ。



その中で大量の五輪塔がひと際目を引く、7代当主 島津元久(左)及び8代当主島津久豊(右)の墓。



右横の由緒墓の区画内には関ヶ原の戦いで、島津義弘の身代わりになった阿多長寿院盛淳の墓石もあった。




福昌寺跡から車で10分ほど移動。住宅街の一画にひっそり残されている清水山本立寺跡(清水御墓)へ。ここには、初代 島津忠久から5代 島津貞久までの五輪塔がある。

地理的に、清水城以前に島津氏が居城していた東福寺城にも近い。




左から5代 島津貞久、3代 島津久経、初代 島津忠久、2代 島津忠時、4代 島津忠宗。この五輪塔は、南北朝期以前の特長を有しているといわれている。

また説明板によると、5人とも戒名に道がつくことから五道院といわれていたが、19代 島津光久の時代に寺名を本立寺と改めたとある。本来の墓は出水にあり、本立寺は鹿児島における廟堂とみられている。

また、歴代墓石塔の右側にある御石塔の由緒はわかっていない。

 

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