8/04/2018

宗悟寺・比企能員館跡・串引沼


2018.4.29

池袋で東武東上線準急に乗り換え、1時間ちょいで東松山駅に到着した。東松山市はウォーキングトレイルとして、名所や史跡を廻るいくつものコースを整備している。
その中の一つ、比企一族の伝承がある大谷の地を訪ねる。まず駅の観光案内所で宗悟寺までの行き方を聞いたのだが、日曜は循環バスの運行を行っていないらしい。結局のところ、国際十王バスの藤山で降りて30分ぐらい歩くしかない。

まず最初の目的地、比企総合研究センターを目指す。東口から徒歩8分くらい。
比企氏にまつわる催し物の主催や本の刊行を手掛け、常設の展示もしているらしい。ちなみに比企総合研究センターは、島津宗家第32代当主 島津修久さんが名誉顧問を務めている。

ところが着いてみると、開店時間を過ぎているのに開いていない。ホームページでは営業日になっていたんたけど。



仕方ないので、本町2丁目から熊谷駅ゆきのバスに乗車し宗悟寺に向かう。15分ぐらいで最寄りの藤山に到着。

バスから降りると目の前に大谷の伝説コースと書かれた標柱があり、その細い道を進むと県道307号線に出る。ひらすら県道を進み、扇谷山宗悟寺へと通じる参道を見つけた。

山門。



後世、大谷村の領主となった旗本森川氏は、1592年に寿昌寺を現在の地に移して再興、扇谷山宗悟寺と改めて以降は森川氏の菩提寺となった。

2代将軍 源頼家の位牌が伝わり、前もって連絡しておけば見せてもらえたらしい。


本堂。



本堂左側には比企一族顕彰碑。



比企能員の娘 若狭局は、伊豆の修善寺で暗殺された夫である源頼家の遺骨を抱え、故郷の比企郡大谷へ逃れた。そして比丘尼山に源頼家の供養のため、大谷山寿昌寺を建立したといわれている。
しかし吾妻鏡は比企能員の変で、若狭局然り比企一族は滅亡したとし、愚管抄に於いては一幡と逃げ延びたが、北条義時の郎党に捕らえられ殺されたという。
いづれにせよ、源頼家が暗殺された1204年より前の1203年の出来事で、若狭局は源頼家より早く亡くなっている。よって若狭局がここに源頼家の遺骨を抱えて逃れたこと自体があり得なくなってしまう。


顕彰碑の奥は墓地になっていて、森川氏累代の墓に目を引かれる。






宗悟寺から東方面に戻り、比企能員の館があったと伝承がある城ケ谷へ。
大雷神社に通じる参道石橋を横目に、まずは手掛かりとなる沼を探す。



しかし沼すら見つけられず、地元の方に館跡を聞いてみたのだがわからないという。でも沼の場所はわかるそうなので教えていただいた。

民家に迷い込んでややこしくなってしまったが、県道307号線の東村山ぼたん園交差点を右に入ると、沼へと通じる道になっていたことがわかる。

比企能員の館跡はこの辺りだったのだろうか。




ここから比企尼山コースに従って比丘尼山へ。

比企尼は、夫の比企遠宗が平治の乱で負った傷がもとで没すると、比企禅尼となりここに草庵を営んだという。これが比丘尼山の由来になっている。

解説板横の獣道を行くと、7世紀のものといわれる横穴墓が現存。



比丘尼山をぐるりと回りこみ、荒神社と庚申塔を過ぎると、左手にゴルフ場が見えてくる。その一部と思われる池が串引沼。

源頼家の想いを断ち切るよう比企禅尼に勧められ、若狭局が肌身離さず持っていた形見である鎌倉彫りの櫛を沼に投げ入れた。そういう若狭局の悲話が伝わる。



そもそも800年以上前のことだが、現在その沼は池にしか見えない。説明板、串引沼改修碑の位置から勝手に逆のこっちだと思っていたんだが。



串引沼からくねくね坂道をアップダウン、大雷神社参道を下り県道307号線へ出て藤山のバス停に到着。徒歩約3時間半かけてのコース巡りとなった。

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