10/29/2018
あやめ御前広場・弥勒堂・西琳寺
2018.7.8
最明寺口から自転車で源氏山公園山頂までは行けないようなので、伊豆長岡温泉口に回り西琳寺口へ抜けるルートを取ることにした。
この日は源氏あやめ祭が行われていて、出店が並び賑わっている。いづみ荘を曲がると、あやめ御前広場の看板が目についた。ここで供養祭が行われたようだが、13時を回っていたこの頃には跡形もなく無人状態。
広場正面には昭和初期に彫られたというあやめ御前の石仏。
あやめ御前は、絶世の美女の容姿が長じて都に上り鳥羽上皇に仕え、やがて源頼政の妻となる。源頼政が亡くなると、伊豆長岡の古奈に戻り夫の菩提を弔いながら日々を過ごし、89歳でその生涯を閉じた。(説明板より抜粋)
このまま山頂まで行けるようだが、車道へ自転車を置いてきたので戻る。しかし車両も十分通れる道幅で整備されてはいるが、勾配はかなりキツい。
しかも山頂広場の直前でカラーコーンで通行止め。結局のところ、工事中で通れないらしい。手前の階段を自転車を降りて下るしかない。
しばらく行くと弥勒堂があった。
説明板によると、あやめ御前は源頼政が平家討伐の戦いに敗れた後は郷里に逃れ、この弥勒堂の下に草庵を結び亡夫の菩提を弔う日々を送ったとある。弥勒堂には、弘法大師が自然石に弥勒菩薩の尊像を彫って安置したと伝えられ、あやめ御前も深く信仰したという。
麓の西琳寺山門から弥勒堂までは弥勒菩薩参道として整備されている。
現在の本堂は明治初年に完成したもの。
その西琳寺境内にはあやめ御前供養塔がある。
西琳寺口を抜け狩野川を渡り、次は真珠院へ向かう。
10/15/2018
北条氏邸跡(円成寺跡)・北条寺・天野遠景の墓・最明寺
2018.7.8
品川駅から特急踊り子で2時間弱、伊豆長岡駅で下車。
まずは観光案内所で情報収集。レンタサイクルの方が循環バスより効率が良さそうなので利用することにした。
しかし営業時間が10時~16時までらしく、15時半には返却してほしいとのこと。現在11時、意外と時間がなさそうなので、見所がまとまった守山中世史跡群を後回しにして、ちょっと離れた北条寺から行くことにした。
途中、狩野川沿いに北条氏邸跡(円成寺跡)と刻まれた標石を発見したが、当時の遺構的なのは見当たらない。
かつての鎌倉幕府執権の北条氏の館跡で発掘調査の結果、建物跡や井戸、堀の存在が明らかになっていて、中国製の陶磁器の欠片などが出土したとか。
後の1333年鎌倉幕府が滅びると、8代執権北条貞時の妻 覚海円成が遺された北条氏の子女の救済と、戦いで亡くなった人々の菩提を弔うために円成寺を館内に建立した。
さらに狩野川を北上し松原橋を渡り、北条義時が創建した巨徳山北条寺へ。
山門を入って左側の小四郎山に北条義時夫婦の墓がある。右が北条義時、左は後妻 佐伯氏娘の墓。
北条寺を出てあやめ橋を渡ると伊豆長岡温泉街。さらに進み天明山東昌寺に向かった。
東昌寺には天野遠景の位牌が安置されているという。
天野遠景は、1180年に源頼朝が挙兵し伊豆から相模へ付き従った武士のなかに名があり、また何より後の1203年、北条時政の屋敷で起こった比企氏の変(比企能員暗殺)にも関与した人物。
東昌寺は、現在地より300m南方の「薬師の段」と呼ばれる高台に天野遠景が薬師堂を建立し、薬師腹蘢を安置したのを始まりとする。
現在の薬師の段には3基が墓が並び、左から政景、遠景、光家のものだと伝えられている。
東昌寺から天野八幡神社を過ぎて民家の路地を行くとあるのだが、場所がかなりわかりづらかった。
伊豆長岡温泉街の方に戻り、順天堂静岡病院向かいの最明寺。源氏山公園の最明寺口として、ここから山頂まで通じているようだ。
本堂横に標石があり、門を潜ると石段の先に鎌倉幕府5代執権 北条時頼の墓がある。
北鎌倉の明月院にも、北条時頼の墓と伝わる宝篋印塔と廟所があるんだとか。
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