2019.2.19
石垣山城址から海蔵寺に立ち寄り、早川駅を利用して隣の小田原駅にまた戻る。西口のロータリーにある北条早雲公像へ。
小田原北条氏の祖である北条早雲の出生については、牢人との説もあったが鎌倉幕府以来の名門 伊勢一族の出で、名は伊勢新九郎盛時というのが現在の定説。室町幕府の幕臣を務めていたこともわかっている。
この銅像は、1495年に北条早雲が小田原侵攻の際、1000頭の牛の角に松明を括り付け、大軍を装い奇襲をかけた火牛の計を再現している。
しかし近年では、小田原が津波によって壊滅的な被害を受けた混乱に乗じ、小田原城を奪取したとの見解で、軍記物に見られる火牛の計は津波を比喩したものだと考えられている。
伊勢盛時から家督を引き継いだ伊勢氏綱は北条に改姓し、これまでの本城を韮山城から小田原城へと移した。
この2代当主 北条氏綱に仕えた島津忠貞という人物がいるが、以前、清徳寺のお墓に訪れた時にちょっと書いた。島津忠貞の子 忠正は後藤少林の養子に入り後藤島津家を興し、その子孫も小田原北条氏の家臣として仕えたという。
後世の後藤久利は、鹿児島藩主 島津光久に島津への復姓を求めそれが認められたが、正式な分家としては承認されなかった。
まだ日没まで時間があるので当然の流れで小田原城に向かう。現在の小田原城は、江戸時代の近世城郭の姿に整備されたもので、1590年の豊臣秀吉が小田原へ侵攻した時は、八幡山丘陵の尾根上に主郭があったという説が有力。
城下町ごと取り込み外周9kmにも及ぶ総構に小田原城の力攻めを諦め、長期戦を覚悟し石垣山城を築いたといわれる。
北条方は諸城に立て籠もり防戦していたが支城が次々と落城。小田原城包囲から約2ヶ月後には、友好関係にあった伊達政宗が豊臣秀吉の軍門に下った。そして3ヶ月に及ぶ籠城も、ついに北条氏直は降伏を申し入れ小田原城を開城した。
馬出門から一般的なルートで天守閣に向かう。
隅櫓の先に見える馬出門。
住吉橋。
二ノ丸へ通じる銅門。
常盤木門。
本丸は150m×114m程の規模で、その西端に天守台、中央に本丸御殿があった。
現在は広場になっていて奥に天守閣がそびえる。
小田原駅に戻り東口から2~3分歩くと、路地裏に北条氏政・北条氏照の墓所がある。
降伏した北条氏直は高野山に追放され、北条氏政と弟の北条氏照は城下の田村安斎邸で自刃した。
正面の2塔並ぶ右が北条氏政、左が北条氏照の墓。右の大きな五輪塔は北条氏政夫人のもの。
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