4/14/2021

蒲生城跡 (1)・蒲生どん墓・松尾城跡・建昌城跡 (1)


2020.12.31

県道25号線から林道を1793m入ると蒲生城跡(城山公園)に辿り着く。支城としていた岩剱城から車で約15分。
蒲生氏17代 蒲生範清が居城とした蒲生城は帖佐城、北村城、岩剱城、松坂城などの支城を備えた。しかし1554年、大隅平定を進める島津貴久との蒲生合戦の緒戦である岩剱城の戦いに敗れると、次々に支城が落ち蒲生城は包囲される。そして1557年に蒲生範清は降伏、城を焼き払い祁答院良重のもとへ逃れた。

かつての曲輪と思われる桜公園の蒲生城跡碑。



駐車場に戻り、脇の冠木門から北へ林間歩道が延びて二ノ丸へと通じる。



二ノ丸から先の本丸は5段の連郭になっていて、4つの仕切門跡が確認できるが、どれも草木に阻まれ入ることができなかった。



本丸の土塁。




県道25号線に戻って、蒲生川と別府川を渡り蒲生どん墓へ。中世豪族蒲生氏の菩提寺であった法寿寺跡に8代から13代までの当主、その一族の五輪塔が31基並ぶ。




次は松尾城大手口へ。
もともと吉田城の曲輪の1つだった松尾城が本城に代わって機能するようになったことで、次第に松尾城の呼称が定着した。
現在ここから先の山の斜面は削り取られ、石切り場となっているため立ち入れない。



島津歳久は大隅合戦で武功を挙げ、1563年に吉田の領主として居城、祁答院の虎居城に移るまでの18年間この地を治めた。
大手口の招魂碑は、竜ヶ水で自害した歳久の遺徳を慕い建立されたといわれている。




島津氏8代 久豊の子で、豊州島津家を興した島津季久が築城した瓜生野城。それまでこの一帯で勢力を張っていた平山氏を攻め落とし、帖佐郷を領した。しかし、嫡子 忠廉の時代に日向飫肥へ転封となったため廃城となった。
戦国末期には、島津氏18代 家久が内城から薩摩藩本城とする計画を打ち出したが、在城の再建・拡張を推奨する父 義弘の反対に遭い断念したといわれている。このやり取りの島津惟新書状は関ヶ原合戦前のことであって、敗戦後に本城移転計画が持ち上がったという認識は間違い。
また合戦後、徳川方である加藤清正の侵攻に備え強化されたという。そして再び文献に現れるのは1614年のことで、その姿は明の建昌城に似ていることからそう呼ばれるようになった。



駐車場横の西之丸は、姶良市が運営する市民農園となっている。
中央を貫く馬乗馬場。左右に曲輪が配置される造りが特徴的。



本丸跡。



城址の標柱は、一際広い常見之丸に建てられている。


4/08/2021

鶴丸城御楼門・探勝園跡


2020.12.30

鶴丸城本丸跡に建つ黎明館で常設展を観覧後、1873年に焼失した御楼門を見学。2020年3月に復元が完了した。



鶴丸城は天守を持たない屋形造りとして知られるが、その城門は高さが約20mと国内最大。本丸に通じる唐御門との間はクランクした枡形を成していて、その石垣には西南戦争時の銃弾痕が無数に残る。



北東にあたる本丸の石垣は、隅角を欠いた鬼門除けになっている。



御隅櫓の石垣。本丸の角にあたる御隅櫓から直角に内堀が設けられていたが、後世に二ノ丸との間は石垣で塞がれ埋められた。




二之丸の庭園だった探勝園には、幕末の島津三銅像が建つ。
薩摩藩最後の藩主 29代島津忠義と父の島津久光、そして1857年ここでモールス信号による交信を成功させた28代当主 島津斉彬の三公。

写真は島津久光公像。背後の城山(上山城)は、鶴丸城の後詰めの城としての役目があり、城番に日置島津家3代当主 島津常久(島津歳久の孫)が任命され警固にあたった。また幕末には西南戦争の決戦地となったことでも知られる。




鶴丸城の西域にあたる南泉院(現在の照国神社)裏の大手口。