11/07/2022

薩摩堀川跡・薩摩藩屋敷跡


2022.8.14

最終日。午前中しか時間がないので、宿泊しているホテルから心斎橋周辺を散策。まず阿波座駅2出入口付近、阪神高速側道の薩摩堀川跡へ。

薩摩堀公園内に昭和36年建立の標柱があり、「東側の家並付近を流れていた薩摩堀川は、寛永7年(1630)薩摩屋仁兵衛らによって開削され、江戸時代薩摩の商船で賑わった。」とある。
初代は豊臣政権に仕えた比田三太左衛門の養子で、商家として成功した。そして代々薩摩屋仁兵衛を襲名し、1713年から天満組惣年寄を務めている。
この辺りに6軒の薩摩問屋が並んでいたというが、1951年に埋め立てられ、現在は公園に碑が建っているのみ。



大坂商人と島津家の関係は古く、江戸時代以前に構築されていた。
1600年、関ヶ原の戦いに敗れた西軍の島津義弘は、東軍に追われ薩摩への帰路、住吉の商人 田辺屋道与を頼った。道与は同じく島津家と取引きのあった堺商人 塩屋孫右衛門を紹介し、孫右衛門の屋敷に匿われ大坂入りを模索した。
しかし面識がなく警戒する義弘に、孫右衛門は自分の孫を義弘の膝の上に乗せ異心がない事を示したという。

また1605年、お礼として道与に島津家の秘薬が伝授された。そして1678年に孫の田辺屋五兵衛が、たなべや薬を販売したのが田辺三菱製薬の始まりとなっている。



薩摩堀公園から徒歩4分、阿波座駅6出入口近くの島津公園。
薩摩藩下屋敷と思われるが、石碑などのそれを示すものはなかった。




島津公園から徒歩15分、土佐堀通り沿い薩摩藩中屋敷跡。マンションの片隅に平成11年建立の標柱がある。




薩摩藩中屋敷跡から徒歩3分、三井倉庫株式会社の1Fにある昭和48年建立の薩摩藩蔵屋敷(上屋敷)跡の標柱。

側面には「薩摩藩は土佐堀2丁目に上屋敷、江戸堀5丁目に中屋敷、立売堀西の町に下屋敷を有した。明治元年会津藩兵と衝突、自らの手で焼いた。」と刻まれている。


10/10/2022

如来寺・石蜘蛛城・大日寺・青山古戦場跡


2022.8.13

夏季休暇に3泊4日で大阪、兵庫をまわった。
大阪駅から東海道・山陽本線で約1時間かけ姫路駅へ。駅前でレンタカーを借り、龍野藩主 脇坂家菩提所の如来寺へ。



ここに越前島津家を興した忠綱の位牌が奉られているという情報から、拝殿裏の墓所も関連するのではと思ったが合致するものは見つけられなかった。
墓地について社務所で話しを伺ったところ、揖保上にあると仰っていたがやはりここまでしかわからない。他の墓所も時間の限り探したが、結局見つけられなかった。



道の駅「みつ」で食事を済ませ、朝日山の北西に位置する石蜘蛛城へ。
播磨国立岡山の石蜘蛛城は、越前島津氏2代 忠行が築城したといわれている。忠行が播磨国下揖保荘地頭に任じられ、越前から移住し15代 忠長まで続いたことから播磨島津家ともいう。

石蜘蛛城遠景。



登城口から頂上までは舗装されているものの、チェーンが張られ車の乗り入れはできない。
ここから徒歩で460m上がると、主郭と思われる削平地に太子町上水道南配水池がある。
途中、立岡山北配水池を曲がった所の説明板によると、「立岡山にある中世の城跡、鎌倉後期の弘安2(1279)年 従五位 島津左衛門大夫忠行が、下揖保荘(今の龍野市揖保町~揖保川町東部辺り)と布施郷(今の龍野市揖西町南西部辺り)の地頭に任命され、一時この山頂に城を築いたとされる。」とある。

遺構はないようだが、いつの時代かの石積みされた一画があった。



また、蓮常寺の方から登山林道が整備されているみたいだけど、使われている様子もなく草が生い茂り道らしいものは確認できない。

頂上から朝日山方面を望む。




播磨守護職 赤松氏を凌ぐ勢力を持つようになった重臣 浦上氏。次第に対立していった両氏の抗争で、1534年に朝日山の戦いが起こる。浦上宗景から赤松方の石蜘蛛城が攻められ、時の城主 島津忠長は城を出て応戦したが、叔父の重宗らと朝日山大日寺麓で討死したという。

朝日山大日寺山門。



大日寺の説明板によると、「天文~元亀(1532~1570年)にかけて3度にわたる朝日山の合戦で寺は全焼した」とある。

忠長の死によって越前島津家(播磨島津家)は事実上15代で途絶えた。
それから時が下った1737年、島津宗家によって越前島津家は復興されることになる。
島津氏22代 島津継豊の弟 忠紀は帖佐郷を領地として与えられ、越前島津氏16代となって継いだ。郷名は越前国の地名から重富と名付けられたため重富島津家といわれるようになった。
一門家の筆頭として垂水島津家、加治木島津家、今和泉島津家と共に島津本宗家に次ぐ格付けとされ、後に島津忠教(久光)が養子となり重富島津家当主を継いだ。また久光の命によって播磨島津家墓地が整備されたという。



次は青山古戦場跡へ。
島津忠長の遺児 忠之は、赤松晴政から布施郷と下揖保荘の地頭職を還付された。
1569年、赤松政秀に従い小寺政職と衝突した青山の合戦は、小寺氏家臣 黒田孝高(官兵衛)が土器山に布陣し迎え撃った。この戦で忠之が討死、まだ2歳の忠之嫡男 義弘は、石蜘蛛城から下揖保庄上村へ落ち延びたという。合戦の地となった千石池に古戦場跡の石碑が建っている。


現在の千石池。




後に義弘は、赤松祐高に従い豊臣秀頼に仕え、1614年の大坂冬の陣では大坂城に籠城した。
写真は大阪城公園駅にある大阪城のジオラマ。



御座船で内堀から撮った大阪城天守。


8/08/2022

関ヶ原 (2)


2022.5.7

福井から東京への帰りがてら、5年ぶりの関ヶ原へ。



目的は、岐阜関ヶ原古戦場記念館で開催中の「島津義弘と関ヶ原の戦い」。1Fの一画に島津家関ヶ原合戦関係年表、島津義弘所用甲冑(想像復元)などが展示されていた。



そして予約しておいた常設のグラウンド・ビジョン。神田伯山氏の解説により、床面スクリーンに会津征伐、前哨戦から関ヶ原への進軍経路、本戦の様子が映し出される。
次はシアターへ移動し、関ヶ原の戦いを将兵の視点から映像で体験。
5F展望室は、360度ガラス張りになっていて古戦場が一望できるので、陣形や戦局を妄想するのもいいかもしれない。



昼食を伊吹庵でとり、別館ショップで買い物。



御朱印は陣跡を訪れて、写真を見せないと購入ができないらしいので島津義弘陣跡へ。




実際はここから北西約250mの薩摩池付近に陣を敷いていた。池の水は軍用として使用された。



ショップに戻って御朱印を無事に収得。


8/06/2022

専光寺・越前島津屋敷跡伝承地・栗屋(厨)城跡


2022.5.6

福井駅から徒歩15分、福井鉄道福武線の商工会議所前にある専光寺。



薩摩、大隅、日向国守護職の島津忠久は、1221年に越前国守護職に補任された。忠久の次男 忠綱が守護代として下向し、越前島津氏を称す。その越前島津氏初代 忠綱の三男 忠景の氏族で、その子 忠宗を父とする忠章は、真宗三門徒派に帰依し出家すると祖海と号した。

忠章が上河北に創建した専光寺は、生部町にあった真言宗の寺院を1321年に真宗三門徒派として移したものだという。さらに1745年に西木田へ移動となり現在に至る。

越前島津氏2代 忠行が播磨国に転封となる一方、この氏族は越前に残り土着したため、忠景の系統を越前島津氏とする系図もあり、個人的にはそれが正統だと思う。
境内左手、昭和61年建立の島津家墓は、墓碑に忠綱から忠章までと28代~30代の名が刻まれている。



また専光寺に残る島津石が忠綱の墓石だという疑問に、ちょうど関係者だと思う方が居らしたので所以を伺うことができた。その方が仰るには錦江湾から持ってきた石で、もともと裏庭にあったという。みんなに見てもらえるように正面に出したらしい。ピンク色のツツジに埋まっているのがそれ。



種子島産の八房梅については、「戦火で焼けてしまい、3年後ぐらいに突然息吹いてきたと聞いている」と仰っていた。



一旦ホテルまで戻り、福井駅近くでレンタカーを借りる。30分ほど車で走り一乗谷朝倉館跡、そして明智神社をまわって越前島津屋敷跡伝承地へ。
明智神社から車で5分ぐらい、氷川神社横の道を入って左側にあった。



現地には説明板が設置されているのみで、その範囲や遺構を示すものはない。



以下、説明板より抜粋。
「承久3(1221)年7月12日、島津氏の祖である島津忠久は、承久の乱の功により越前守護に任じられ、次男忠綱が守護代として越前に下向し、栗屋山城(現越前町厨)を築いた。
また同年8月25日には嫡男忠時が生部荘と久安保重富の地頭に補任され、忠綱は代官としてこの地に屋敷を構え居住したと伝えられている。
しかし7年後の安貞2(1228)年5月には後藤基綱(評定衆の一人)が越前守護職に就いており、また仁治3(1242)年2月には忠時は生部荘に替えて和泉国和田郷(現大阪府堺市)地頭に補任されている。こうして島津氏は越前から撤退することとなった。」



忠綱が標高535.7mに城郭を築いたとされる栗屋(厨)城へ。
ふるさと林道から越前西部2号線へ入り、城山参道入口を目指す。舗装されているものの所々落石があったり、くねくねした道の運転にはかなり気をつかった。

第1鳥居から栗屋(厨)城跡の主郭部を目指す。



小城を左手にした堀底。



小城から尾根上に延び、愛染明王社へとつながる道の途中、縄張り図には堀切と記してあるが、歩道整備のため埋められたようだ。
第2鳥居の横の竪堀群など、多くの遺構は戦国時代のものと考えられている。



南北朝の動乱のころは、新田義貞に攻められ落城したといわれている。その時の戦死者を弔うため、第2鳥居を上がった主郭部に愛染明王を祀る社殿が建立された。




忠綱の在城後は廃城になったのか、現地の説明板には築城を南北朝時代との見解を示している。

また忠綱は、厨城山近くの瓢箪塚と呼ばれる小丘北側に居館を構えたという。そこに忠綱の墓と伝える五輪塔が残されているが、時間の都合上、瓢箪塚すら見つけることができなかった。

7/10/2022

梅君ヶ城跡・太閤陣跡・一宇治城跡 (2)・円福寺跡


2022.1.30

木崎原合戦の敗戦後、衰退していった日向の伊東義祐が豊後に落ち延びると、島津歳久は伊東権頭玄蕃の元妻を側室として、梅君ヶ城(鶴ヶ城)に迎え住まわせた。
新納忠堅の娘で、梅と称したことから梅君ヶ城と呼ばれるようになったという。



1587年から1592年頃まで歳久が居城しているので、九州平定後に虎居城から移ったと思われる。後にその一部の曲輪に歳久を祀った平松神社が創建された。



説明板に興味深い記載があったので抜粋。「島津国史によれば、秀吉が曽木に向って出発後、秀吉の小姓が梅君ヶ城の屏風の絵を剥ぎ取って行ったことが分かり、歳久の命で鎌田因獄政金が返還交渉に出掛けた。秀吉はこれを聞き、絵を盗んだ小姓の指を斬り、絵と共に返したという。この事件から、秀吉が城に宿泊したことがわかる。」とある。

また第1の鳥居から左の道を行くと、遺構らしきものがあった。土塁というかほぼ土の壁。意図的な上部のくぼみは狭間のようでもあり謎。




県道51号線から200mほど入ったところにある太閤陣跡(鳶ノ巣陣)へ移動。



この陣は島津義久が泰平寺で降伏後、秀吉の大軍が平佐から移動し、前川を挟んだ梅君ヶ城で抵抗を続ける歳久の様子を伺うために築いた陣跡と伝わる。
また飯野から島津義弘が秀吉に拝謁のために訪れ、大隅国を安堵されている。一方の歳久は病気と称して、代わりに本田掃部助を伺候させた。

当時の秀吉は太閤ではなく関白だが、後世の1802年に石碑が建立されたのでそのようになったのだろう。




次は一宇治城跡へ向かう。

鎌倉時代の初め、伊集院郡司の紀四郎時清が一宇治城を築いて4代約130年の間居住した。その後、島津氏一族の久兼が伊集院姓を名乗り城主となる。

南北朝時代の伊集院氏5代  忠国は、島津氏一族の中で唯一南朝方につき一宇治城で挙兵、北朝方の島津氏と敵対し忠国から久氏、頼久、煕久と4代に渡り宗家を凌ぐ権勢を誇った。
1411年、島津氏7代 元久が病に倒れると、伊集院頼久が子の煕久を後継者に擁立し、それを阻止した久豊が島津氏8代当主に就き抗争が起こる。頼久の娘が久豊に嫁ぎ、化粧料として石谷の地が与えられ和睦が成立した。
しかし煕久が伊集院氏9代に就任すると、石谷の所領を巡って領主 町田高久を殺害。この報復に島津氏9代 忠国が一宇治城を攻め落とし、煕久の逃亡により世代を跨ぐ争いは終息した。
ちなみに伊集院忠朗や忠棟は、伊作家の島津忠良に従った煕久の弟 倍久の系統にあたる。

そして1536年、薩州島津家配下にあった一宇治城は、勢力を伸ばしつつあった島津忠良・貴久に攻められ落城。貴久は伊作城から移り、薩摩統一を果たして内城を築く1550年まで居城とした。

在城中の1549年にはフランシスコ・ザビエルと会見し、キリスト教の布教を許可したとされる。神明城跡にあるザビエル碑 。



城山公園として整備された一宇治城は、駐車場から中之城跡に通じる鉄砲階段が登城口になっているが、縄張り図からみても公園整備で破壊されたと言わざるをえない。



説明板によると「大手口は、伊集院氏時代は荒瀬の方であったが、島津氏が入ってからは犬之馬場の正面に変更された。」とある。釣瓶城に通じる堀底がそうなのだろうかと思いつつ、この辺りは道路が敷かれてて何とも言いがたい。



駐車場から階段を上がりきると、中之城と蔵跡の間にある井戸溝跡に出る。一宇治城に3ヶ所あった湧水の1つで、伊集院氏が居城の時に使用していたものと推定されるという。



中之城から南之城に通じる堀底。南側の曲輪群は堀が深く、各々独立した特徴がある。



一方、一宇治城の北側は斜面を活かした帯曲輪群が目立つ。その最上段にある神明城は、伊集院久親・忠親の父子が元寇に参陣し、神風によって撃退できた神恩に報いて神明神社を建てたことに名前が由来する。

展望台から望む伊集院市街地、その奥に桜島。



神明城の西側に設けられた伊作城との高低差を克服させる空堀。



本来、駐車場北側のスロープから上がるルートが登城口と思われる。右手に神明城を見上げ、いつの時代だかの石積みの痕跡がある。




2022.12.25

一宇治城跡から車で8分ぐらいの横手山円福寺跡。広済寺の末寺だったここにひっそりと伊集院忠国の墓がある。




1608年、島津氏18代 家久は琉球を服属させるため、広済寺の雪岑を琉球に派遣している。しかし交渉は決裂、翌年に琉球出兵となった。

伊集院忠国の墓に並んで雪岑の墓があるというがよくわからない。

5/23/2022

志和地城跡・森田陣跡・都之城跡・伊集院忠真供養塔


2022.1.29 (3)

九州平定後、伊集院忠棟は豊臣政権から都城8万石を知行され、島津氏家老でありながら一大名として扱われるようになった。当主である島津義久が10万石だから破格の待遇であり、島津氏宗家としてはとても容認できず、家臣からの妬みも積もり事件へと発展した。

1599年、後継者となっていた島津忠恒が、忠棟を島津家伏見屋敷に呼び出し自らの手で斬殺したのである。「当主である島津家をないがしろにした」との理由で、この件は忠恒の短慮によるものとされた。
しかし義久は庄内との通交を遮断させ、伊集院忠真への応対など、同意があったともとれる。
そして父を斬殺された国元の忠真は、島津家に対し反旗を翻し庄内の乱が勃発。一時謹慎していた忠恒だが、これに対処すべく伏見から戻り総大将として指揮をとった。

忠恒は東霧島神社に陣を構え、島津豊久を大将に新納忠元、入来院重時らが庄内12外城の山田城を攻め陥落させた。また攻め倦んでいた恒吉城(日輪城)が樺山久高の策により開城する。しかし加藤清正、伊東祐兵から支援を受けていた伊集院方の士気は維持されていたという。
この戦局に、忠恒は志和池城西側に森田御陣を布いた。台地の縁に沿って築いた大掛かりな陣営だったことから、志和池城が伊集院方の重要拠点だったことが窺い知れる。

現地の説明板に掲載されている森田御陣古地図。



忠恒が詰めた御陣辺りだと思われる場所。



陣跡の標柱が北郷陣だけ唯一建っている。



旧領奪還に意欲を示す北郷氏は、最前線で奮闘し敷根仲兵衛が志和池城の武将 園木治右衛門を討ち取っている。その鑓合せ場が志和池城南側麓にある石碑の辺りだという。




志和池城主郭の内之城は日露戦役紀念碑と忠霊塔が建つ広場、また一部は霊苑となっていて車で行くことができる。



内之城跡。



志和池城遠景。左側は西栫で、右側の志和池城との間にあった二の丸は削平されている。



志和池城が落ちると、忠真は徳川家康の調停を受け入れ降伏。本城としていた都之城を開城し、9ヶ月にも及んだ庄内の乱は終息した。

都之城跡。




この内乱で困窮した情勢から、直後の関ヶ原の戦いには十分な兵を送れなかったという。
そして1602年、西軍につき敗戦した関ヶ原の戦いの戦後処理で、忠恒が家康に謁見のため上洛することになり忠真は同行を命じられた。その道中の日向国野尻で鹿狩りを行なった際、押川治右衛門と淵脇平馬によって忠真は射殺されてしまう。忠真が島津氏家老 平田増宗の子 新四郎と馬を乗り換えていたため、新四郎も誤って撃たれている。治右衛門はその責任を負い自害した。
しかし一説によれば、かつて増宗が島津家の家督継承問題に介入したことによる遺恨で、忠恒が計画的に射殺させたともいわれている。

野尻にある伊集院忠真供養塔。



押川治右衛門(左)と平田新四郎(右)の墓。