2022.1.29 (3)
九州平定後、伊集院忠棟は豊臣政権から都城8万石を知行され、島津氏家老でありながら一大名として扱われるようになった。当主である島津義久が10万石だから破格の待遇であり、島津氏宗家としてはとても容認できず、家臣からの妬みも積もり事件へと発展した。
1599年、後継者となっていた島津忠恒が、忠棟を島津家伏見屋敷に呼び出し自らの手で斬殺したのである。「当主である島津家をないがしろにした」との理由で、この件は忠恒の短慮によるものとされた。
しかし義久は庄内との通交を遮断させ、伊集院忠真への応対など、同意があったともとれる。
そして父を斬殺された国元の忠真は、島津家に対し反旗を翻し庄内の乱が勃発。一時謹慎していた忠恒だが、これに対処すべく伏見から戻り総大将として指揮をとった。
忠恒は東霧島神社に陣を構え、島津豊久を大将に新納忠元、入来院重時らが庄内12外城の山田城を攻め陥落させた。また攻め倦んでいた恒吉城(日輪城)が樺山久高の策により開城する。しかし加藤清正、伊東祐兵から支援を受けていた伊集院方の士気は維持されていたという。
この戦局に、忠恒は志和池城西側に森田御陣を布いた。台地の縁に沿って築いた大掛かりな陣営だったことから、志和池城が伊集院方の重要拠点だったことが窺い知れる。
現地の説明板に掲載されている森田御陣古地図。
忠恒が詰めた御陣辺りだと思われる場所。
陣跡の標柱が北郷陣だけ唯一建っている。
旧領奪還に意欲を示す北郷氏は、最前線で奮闘し敷根仲兵衛が志和池城の武将 園木治右衛門を討ち取っている。その鑓合せ場が志和池城南側麓にある石碑の辺りだという。
志和池城主郭の内之城は日露戦役紀念碑と忠霊塔が建つ広場、また一部は霊苑となっていて車で行くことができる。
内之城跡。
志和池城遠景。左側は西栫で、右側の志和池城との間にあった二の丸は削平されている。
志和池城が落ちると、忠真は徳川家康の調停を受け入れ降伏。本城としていた都之城を開城し、9ヶ月にも及んだ庄内の乱は終息した。
都之城跡。
この内乱で困窮した情勢から、直後の関ヶ原の戦いには十分な兵を送れなかったという。
そして1602年、西軍につき敗戦した関ヶ原の戦いの戦後処理で、忠恒が家康に謁見のため上洛することになり忠真は同行を命じられた。その道中の日向国野尻で鹿狩りを行なった際、押川治右衛門と淵脇平馬によって忠真は射殺されてしまう。忠真が島津氏家老 平田増宗の子 新四郎と馬を乗り換えていたため、新四郎も誤って撃たれている。治右衛門はその責任を負い自害した。
しかし一説によれば、かつて増宗が島津家の家督継承問題に介入したことによる遺恨で、忠恒が計画的に射殺させたともいわれている。
野尻にある伊集院忠真供養塔。
押川治右衛門(左)と平田新四郎(右)の墓。
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