2022.1.2
JR山手線駒込駅からバスに乗り換え、諏訪山吉祥寺へ。
崩壊具合が気になる島津久敏と町田久幸の墓石の現存確認をし、御朱印を2種類いただく。
ここから本駒込まで歩き南北線に乗車。白金台2番出口を出て、八芳園(島津式部抱屋敷、松平薩摩守下屋敷跡)の隣にある紫雲山瑞聖寺へ。
大雄宝殿は、島津氏25代(薩摩藩8代藩主)島津重豪により扁額を与えられ再建された。一時は自らの墓所を瑞聖寺に定めていたという。
当寺の説明板には再建が推定1757年とあるので、この年だと重豪は13歳ぐらいの時になる。すでに元服し藩主に就いていたとはいえ、若年過ぎる気もする。
御朱印は書き置きの2種類をいただいた。
2022.1.4
上野恩賜公園入口に、東叡山寛永寺総門だった黒門を模した壁泉がある。東京国立博物館前の噴水広場に根本中堂があったというから、上野公園のほぼ全域が寛永寺境内だったということになる。壁泉に向かって左手が旧参道で、その冠木門が建てられていた。
1868年、江戸無血開城させたとはいえ、まだ江戸を制圧しきれていない薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は、寛永寺に集結した旧幕府勢力の彰義隊討滅に乗り出す。そして戊辰戦争の局地戦が上野で起こり、黒門口に配置された薩摩軍は山王台の彰義隊と銃撃戦を行ない、本郷台からは佐賀藩のアームストロング砲が撃ち込まれた。半日で新政府軍が制圧し勝利、寛永寺はその大部分を焼失したという。
壁泉横の階段を上がった山王台に、薩摩軍を指揮した西郷隆盛の銅像がある。
その背後には彰義隊の墓。
1698年に5代将軍 徳川綱吉によって建立され、上野戦争で焼失した根本中堂は、かつての子院に数えられた大慈院に再建された。
御朱印。
東京国立博物館の東側に見明院がある。最盛期には36にも及んだという寛永寺子院のなか、現存する19のうちのひとつ。この辺りの路地は私有地のため、忍岡中学校の方へ回り込まないといけない。
ここの本堂が1953年に、広尾島津家上屋敷から移転改築されたものだという。しかし広尾に薩摩藩島津家の上屋敷はなく、近くの渋谷にあったのは下屋敷。
現在、広尾には佐土原藩島津家の菩提寺 禅河山東北寺があり、支藩の可能性もあるようにも思える。いづれにせよ、丸に十字が施された瓦や建物は威厳さえ感じた。
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