4/25/2023

大乗院跡・清水城跡 (3)


2022.12.29 (2)

日没まで時間もあるので市内に戻る。もう何度目の登城の試みになるか清水城跡へと向かう。

1411年、島津氏7代 元久が急逝すると、弟の久豊が宗家の家督を継いだ。しかし元久と縁戚関係にあった伊集院頼久が、子の初犬千代丸を後継者(元久との約束とも)に擁立し、島津氏8代となった久豊と対立する。
1413年、久豊は従わない渋谷一族、菱刈氏を討つため大隅国菱刈に出陣。これを好機とした頼久は挙兵、清水城を襲撃したことが通説になっている。
一方では頼久に内応する者があり、東福寺城を開城させ島津氏家宝を奪い取ろうとしたとの記録があるという。後記だと、そもそもの対象が清水城ではなく占拠もされていないことになる。いずれにせよ、知らせを聞いた久豊は急ぎ兵を返し、原良でぶつかった頼久軍を討ち破った。この家督争いに端を発した抗争は、1417年に谷山城を攻略され頼久が降伏するまで続く。


階段が整備されている稲荷口。前回断念した腰曲輪の先を目指す。



立ち入ってすぐ、罠に掛かった猪が通せんぼ。小振りの割りに凶暴そうだったので、仕方なく大興寺口へとまわることにした。立入禁止でもない城道近くに罠が仕掛けてあると思うとゾッとする。

清水中学校プール横、大興寺口近くの大乗院遺構である磨崖梵字。下部には五輪塔双式板碑が彫られている。



1550年、島津氏15代 貴久は居城を一宇治城から内城に移し、清水御屋形跡には大乗院が築かれた。以降は真言宗寺院の中心として栄え代々島津氏の祈願所となる。
三州統一を果たし、大友宗麟と対峙していた島津義久がここでクジ取りを行い、豊後攻めを決めたという。
しかし廃仏毀釈が起こると、大乗院は鹿児島で最初に取り壊しの対象となった。また、鹿児島市立美術館敷地内にある持明院様(じめさあ)の石像は、この境内にあった白地蔵だといわれている。

中学校正門横には、大乗院12代住職 覚山和尚の墓、歴代住職の墓がある。



大興寺口を登っていくと、大興寺石垣群が現れる。



北東の鬼門除け。



湧水場。前回ここまでは来れたので、今回は満を持して先に進む。



山神権現。右下に元禄17年(1704年)と刻まれているようで、島津氏が内城に拠点を移してからも何かしら手入れがあったようだ。



山神権現の先は南北にのびる大空堀になっていて、主郭に通じるようだが一旦戻り南曲輪群の虎口から立ち入った。

大空堀。



南曲輪群虎口。



城道に倒れた竹を掻き分け進み、南曲輪群の北端までくると主郭に辿り着く。主郭の土塁。



南曲輪群と中曲輪群は稲荷空堀(東西にのびる堀)で遮断されている。



写真の大空堀を横断して道なりに進むとたんたど方面に抜けれたが、清水中学校の方に車を停めていたので来た道を戻る。後々思えば大空堀から山神権現へのルートを取ればよかった。失態。

帰りに麓の稲荷神社で御朱印をいただいた。


4/15/2023

桂山寺跡・大乗寺跡 (2)・光禅寺跡


2022.12.29 (1)

今日は日置市日吉町の日置島津家関連をまわる。
祁答院を所領していた島津歳久は、忠隣を根白坂で豊臣秀長軍との戦いで失い、自身も自刃に追い込まれた。後に忠隣の子 常久は日置を与えられ、日置島津氏3代となった。

常久が父 忠隣の菩提寺とした桂山寺跡。



薩州島津氏6代 義虎の子で、歳久の養子に入った忠隣の墓。



近くには赤山靱負の墓がある。島津氏27代 島津斉興は後継ぎを正室の子 斉彬ではなく、側室 お由羅の子 久光を後継ぎにしようと画策していた。しかし斉彬擁立派の動きを知った斉興は憤慨、関わった者に対し処分を下し、赤山靱負には切腹が命じられた。




ここから車で約5分の大乗寺跡の日置島津氏墓所へ。6年ぶりの再訪。
島津歳久の母 雪窓院が建立した寺院を、常久が歳久の菩提寺として再興した。




初代 歳久の墓。



4代 久慶の墓。島津氏18代 家久の家老。



12代 久風の墓。子に赤山家の養子に入った赤山靱負がいる。



13代 久徴の墓。赤山靱負の兄で島津氏28代 斉彬の家老を務めた。




次は4分ぐらい車を走らせ光禅寺跡へ。
1602年、歳久夫人が瑞岳和尚を招き瑞喜山悦窓院を建立。後に光禅寺と改められた。



玉垣に囲われた宝篋印塔が悦窓院のもの。



常久の墓を捜索。戒名 芳春天沢庵主が手掛かりで、刻銘が削られ解読は不可能だが、庵主の文字は判断できる左側かと思っていたけど、右側が常久の墓らしい。
黎明館で配布されているコラム鹿児島城04の「城下を一望 城代は24歳 島津常久」に貴重な記載があった。