9/18/2023

高尾城跡・平山城跡(帖佐本城)


2023.8.16 (2)

島津義弘居館跡に戻り、高尾城跡及び平山城跡を目指す。桜公園に駐車場があるらしいが、麓からの道は軽自動車ぐらいしか通れなさそう。徒歩で15分くらいと書いてあったので歩くことにした。

高尾城跡、平山城跡遠景。



しばらく歩くと平山城の支城として築かれた高尾城跡の標柱があった。



ここから数分登った曲輪に、元稲荷と呼ばれる所がある。



1598年、朝鮮出兵(慶長の役)で島津軍の守る泗川新城に、董一元を大将とする20万の明軍が攻めてきた。その時、火薬を抱えた赤と白の狐が現れ明軍に突入し自爆したという。そして混乱した明軍を島津軍は城から撃って出て撃退した。この狐の骨を増長院住持の陣僧頼雄法師に持ち帰らせ、祀った稲荷神社が同年に建てられた。後年、崩壊のおそれから麓の島津義弘居館跡(御屋地跡)へ移され現在に至る。

元稲荷の途中の石垣。



右側には段曲輪が広がっている。




車道に戻りさらに進むと、左手に鳥居があり右手に桜公園が位置する。この辺一帯が平山城跡(平安城、帖佐本城ともいわれる)となる。



1282年、平山了清が帖佐郷の領家職を得て下向、山城国の石清水八幡宮を勧請し祠を建立した。そして新正八幡と称し一帯に城郭を構えた。

鳥居から参道を進むと新正八幡神社が鎮座、裏手には土塁が現存している。




鳥居下の空堀。この先に空堀が続き曲輪群があるようだが、整備されておらず進むのは困難。



左手の曲輪には、別当寺と定められた増長院の住職墓がある。



桜公園は季節柄草が生い繁り、さらに先は姶良無線基地局の敷地となっていた。姶良市街地が遠望できる。



代々居城としてきた平山氏は9代 武豊が島津氏9代 忠国と対立、忠国の弟 季久が平山城を攻め落とすと、帖佐は豊州島津氏が所領するようになる。そして別府川を挟んで瓜生野城(後の建昌城)を築き、嫡男の島津忠廉とともに移り豊州島津氏の本城とし、平山城には次男の忠康を在番させた。後に島津氏11代 忠昌は、豊州島津氏2代 忠廉を帖佐から日向飫肥に移し伊東氏の侵攻に備えている。
一方、忠康は大隅国の串良城を与えられ移ったため、帖佐は島津宗家の直轄領となった。そして平山城に入った川上忠直は辺川を名乗る。しかしこの辺川忠直、次に帖佐地頭となる島津昌久と、続けて薩州家の島津実久と通じて島津宗家に叛いた。ともに島津忠良によって制圧されているが、この相州家と薩州家の家督争いに乗じ、今度は祁答院重武が平山城及び山田城を攻め落とし私領化した。そして重武から良重へと引き継がれる。

1554年に岩剣城を島津氏15代 貴久に攻略された良重は、さらに平山城で抵抗を続けたが、瓜生野城に布陣した島津軍により祁答院勢は壊滅し虎居城へと退いた。

9/12/2023

総禅寺跡 (2)・膝跪騂の墓


2023.8.16 (1)

今日は豊州島津家関連の史跡を中心に巡る予定。まずは豊州家島津氏菩提寺の総禅寺跡を再訪した。民間墓奥に豊州家島津関係の石塔群がある。



島津氏8代 久豊3男、豊州家初代 島津季久の墓。



以前、豊州家6代 島津朝久のものとした墓石だが、7代 島津久賀息男久基墓との表示がされていた。朝久の墓の標柱は不自然な所に建っていて、元々違和感はあったが真相はどうなのだろう。



島津義弘が北郷忠孝(忠親の実弟)の娘との間にもうけた御屋地の墓。後に朝久の室として迎えられる。



伊東氏、肝付氏と対峙していた豊州島津家は、北郷忠親(忠相の子で北郷氏9代だった)が豊州家5代当主に就き、1560年に宗家から義弘を養子に迎え入れ飫肥の守りを固めた。しかし廻城の戦いで苦戦を強いられた島津氏15代 貴久は、養子縁組を解消させ義弘を本宗家へ戻している。


豊州島津家歴代墓は、10代以降の墓地があった南林寺から改葬されたもの。ちなみに豊州島津家8代 久守、9代 久邦は興国寺跡が墓所となっている。



島津金吾歳久公胴体埋葬之跡。



1592年、梅北一揆の責任を取らされるかたちで豊臣秀吉の命に従い、歳久は自害へ追い込まれた。首は名護屋城にいた秀吉の検分を受け、京都の一条戻橋に晒され浄福寺へ、胴体は総禅寺に葬られた。首と胴体が一緒に埋葬されるまで280年もの年月を経ることになる。



島津義弘居館跡の先にある膝跪騂の墓へ。1572年、日向伊東氏との木崎原の戦いに於いて、柚木崎丹後守との一騎討ちで義弘を愛馬が両膝をつき助けたといい、その愛馬は膝跪騂と名付けられたと伝わる。墓石は1707年に種子島伊時(後の久基)が再建したものだという。



後ろには膝跪騂を最後まで世話した橋口対馬安重夫婦の墓がある。


9/10/2023

川上天満宮・町田家墓石塔群 (2)・石谷城跡


2023.8.15

祖母の初盆祭を川上天満宮で執り行なった。



御朱印。



島津氏5代 貞久が、京都の北野天満宮の御霊を薩摩国川上村に勧請し創建、地域の平安と五穀豊穣、無病息災を祈願し、川上天満宮は三社詣りの三之宮に位置付けられ、正月には島津氏当主が詣でる慣わしがあった。それは島津氏19代 光久の頃まで続き、特に島津氏18代 家久は篤く尊崇していたという。

川上氏は貞久の庶長子 頼久から始まり、3代 家久が川上村を宛てがわれ代々治めた。



一旦実家に戻り、永福寺跡裏手にある町田家墓石塔群を再訪。



町田氏は島津氏2代 忠時の7男 忠経、その子 忠継に始まり、弟の忠光が町田氏2代を引き継いだ。ここにある15代 梅久、17代 久徳、22代 久東から28代 久長の墓碑は、五輪塔や石祠型など様々。

町田氏15代 梅久の墓。



1536年、島津忠良・貴久に内応した長男の忠栄(町田氏16代)が、薩州家 島津実久に叛き兵を挙げた。人質に入っていた梅久は鹿児島から脱出したが、犬迫の萩別府で肥後助西の兵と野戦になり戦死した。墓碑には、その伏野原の戦いとなった日の天文5年12月6日が刻まれている。
ともに討死した町田忠親兄弟の墓碑。



また梅久2男の石谷忠成は島津忠将の家老を務め、廻城の戦いに従軍し竹原山の救援に向かう途中、肝付兼続の伏兵により忠将らと討死した。


22代 久東の墓。



25代 久甫の墓。



28代 久長(久成の父)の墓は神式による墓標。




近くの旧石谷小学校跡には標柱があり、この一帯に石谷城は築かれていた。築城は町田氏2代 忠光といわれ、16代 忠栄が拡張し整備した。3つの曲輪から成り、永福寺跡に入る道は空堀跡だと思われる。