2023.8.15
祖母の初盆祭を川上天満宮で執り行なった。
御朱印。
島津氏5代 貞久が、京都の北野天満宮の御霊を薩摩国川上村に勧請し創建、地域の平安と五穀豊穣、無病息災を祈願し、川上天満宮は三社詣りの三之宮に位置付けられ、正月には島津氏当主が詣でる慣わしがあった。それは島津氏19代 光久の頃まで続き、特に島津氏18代 家久は篤く尊崇していたという。
川上氏は貞久の庶長子 頼久から始まり、3代 家久が川上村を宛てがわれ代々治めた。
一旦実家に戻り、永福寺跡裏手にある町田家墓石塔群を再訪。
町田氏は島津氏2代 忠時の7男 忠経、その子 忠継に始まり、弟の忠光が町田氏2代を引き継いだ。ここにある15代 梅久、17代 久徳、22代 久東から28代 久長の墓碑は、五輪塔や石祠型など様々。
町田氏15代 梅久の墓。
1536年、島津忠良・貴久に内応した長男の忠栄(町田氏16代)が、薩州家 島津実久に叛き兵を挙げた。人質に入っていた梅久は鹿児島から脱出したが、犬迫の萩別府で肥後助西の兵と野戦になり戦死した。墓碑には、その伏野原の戦いとなった日の天文5年12月6日が刻まれている。
ともに討死した町田忠親兄弟の墓碑。
また梅久2男の石谷忠成は島津忠将の家老を務め、廻城の戦いに従軍し竹原山の救援に向かう途中、肝付兼続の伏兵により忠将らと討死した。
22代 久東の墓。
28代 久長(久成の父)の墓は神式による墓標。
近くの旧石谷小学校跡には標柱があり、この一帯に石谷城は築かれていた。築城は町田氏2代 忠光といわれ、16代 忠栄が拡張し整備した。3つの曲輪から成り、永福寺跡に入る道は空堀跡だと思われる。
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