10/10/2023

姶良市歴史民俗資料館・鹿児島旧港施設 (2)・興国寺跡墓地


2023.8.16 (4)

タイミングが合わず、なかなか行けてなかった姶良市歴史民俗資料館へ。この時は夏季特別展「前の浜の戦(薩英戦争)」が開催されていた。



常設の戦国期展示物は蒲生城古図、岩剣合戦概略図、関ヶ原合戦の島津軍撤退ルート図など。また、物販で平成16年の「越前(重富)島津家の歴史」と平成18年の「戦国武将 島津義弘」の特別展図録、新刊「九州の名城を歩く (宮崎、鹿児島編)」を購入した。




鹿児島市内に戻り、前回撮り損ねていた旧港施設の新波止砲台跡碑へ。正面が対岸側でiPhoneのズームでもこれが限界。新波止砲台跡といっても、実際は1904年に新波止と一丁台場を繋ぐために築造された遮断防波堤上にある。



新波止は島津氏28代 斉彬が防波堤を台場に改修し、1863年の薩英戦争では150ポンド砲を含む11門の大砲が配備され、主力砲台として英国艦隊との砲撃戦が行われた。




薩英戦争後、薩摩藩は和解した英国に使節団と留学生を派遣。その団長を務めた新納久脩(中三)の墓が興国寺跡墓地にある。



久脩は英国渡航時に紡績機械を購入していて、磯に洋式機械紡績所を開業させた。この時に雇い入れた技師の居館は異人館と呼ばれ、産業革命の遺産として残されている。

興国寺は島津氏11代 忠昌が清水城一画に建立。その後、島津氏12代 忠治が同地に大興寺を築くため御厩に移され、さらに鶴丸城建設に伴い現在地に移設された。忠昌の墓は福昌寺に改葬となるが、豊州島津家や永吉島津家4代 久雄の墓石など興味深いものも多い。
しかし配置図はなく、伸びきった草々で条件はすごく悪かった。結局、見つけられず終い。

新納家の墓石の背面にある伊集院家の墓石群。



宝暦治水の副奉行を務めた伊集院十蔵の墓。側面に久東と彫られている。



伊地知親子の墓は、倉庫前にあるのでわかりやすい。伊地知季安の墓。



伊地知季安は島津氏28代 斉彬に認められ、記録奉行として島津氏700年の歴史編纂を任された。その大業は子の季通と2代に渡り、薩藩旧記雑録を完成させている。

10/07/2023

建昌城跡 (2)


2023.8.16 (3)

島津季久が豊州島津家の本城として築いた瓜生野城。豊州家2代 島津忠廉が日向飫肥へ転封後は使われなくなり、廃城となったと考えられている。廃城後の残る史料は、島津家久が島津氏の本城としようとしたこと、関ヶ原の合戦後に徳川方の侵攻に備えて島津義弘が拡張整備したということ。その整備前後の全貌の区別がはっきりしないが、要害堅固な様が明の建昌城に似ているということで、そう呼ばれるようになった。

西側は駐車場が整備され、西ノ丸跡は市民農園として利用されている。一方、東側には胡麻ヶ城(瓜生野城)と呼ばれる曲輪群が形成されていて、遺構もよく残っているという。
確かに縄張り図からも、複雑に細かく曲輪が雛壇状に配備された様子が読み取れ、この虎口から攻め難いのは想像に難くない。



これを搦手口とする史料もあるが、少なくとも現在の構造を踏まえると、大手口との見解が正しいように思える。

そして東西を貫く馬乗馬場へと繋がり、左右に曲輪が配置されている。



胡麻ヶ城の土塁。



奥には曲輪群が広がる。



前之丸と胡麻ヶ城の空堀は虎口へと通じる。



常見之丸にある城跡の標柱。



二ノ丸の土塁。