2023.8.16 (3)
島津季久が豊州島津家の本城として築いた瓜生野城。豊州家2代 島津忠廉が日向飫肥へ転封後は使われなくなり、廃城となったと考えられている。廃城後の残る史料は、島津家久が島津氏の本城としようとしたこと、関ヶ原の合戦後に徳川方の侵攻に備えて島津義弘が拡張整備したということ。その整備前後の全貌の区別がはっきりしないが、要害堅固な様が明の建昌城に似ているということで、そう呼ばれるようになった。
西側は駐車場が整備され、西ノ丸跡は市民農園として利用されている。一方、東側には胡麻ヶ城(瓜生野城)と呼ばれる曲輪群が形成されていて、遺構もよく残っているという。
確かに縄張り図からも、複雑に細かく曲輪が雛壇状に配備された様子が読み取れ、この虎口から攻め難いのは想像に難くない。
これを搦手口とする史料もあるが、少なくとも現在の構造を踏まえると、大手口との見解が正しいように思える。
そして東西を貫く馬乗馬場へと繋がり、左右に曲輪が配置されている。
胡麻ヶ城の土塁。
奥には曲輪群が広がる。
前之丸と胡麻ヶ城の空堀は虎口へと通じる。
常見之丸にある城跡の標柱。
二ノ丸の土塁。
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