2024.8.15
お由羅騒動で島津斉彬を推していた葛城彦一は、斉彬派が切腹や遠島の処分を受けるなか、筑前藩へ亡命し難を逃れた。斉彬が当主に就くと、加治木島津家10代 久宝の姉 貞姫が近衛忠房への嫁入りに際し、付き人として近衛家に仕えた。
旧名は竹内半右衛門といい、加治木島津家の家臣。姶良市の真光院墓地には葛城彦一翁碑が建立されている。
青山霊園管理所近くにある葛城彦一の墓。
薩摩藩下層身分 与力の家に生まれ、大警視(初代警視総監)にまで出世した川路利良。
身分が故、一兵卒に過ぎなかった川路は禁門の変や鳥羽・伏見の戦い、上野戦争と戦功をあげていった。新政府が成立すると、西郷隆盛から東京の治安維持を任せられる。ところが、その恩人である西郷が征韓論争で大久保利通らと対立して陸軍大将を辞任し下野、薩摩藩士の多くも軍や羅卒を離脱し鹿児島に戻ていった。
一方、川路は東京にとどまることを決意、警察創設に邁進し警視庁創設にまで至った。新政府が打ち出した廃刀令や家禄の支給廃止に反感を抱いた士族の反乱では、警察官を後方支援で派遣し鎮圧に貢献した。
新政府が最も警戒していたのは西郷が創設した私学校というのは言うまでもなく、そこに密偵を派遣していることが露見すると、私学校の士族たちは武装して決起した。
鹿児島の私学校跡。
1877年、西南戦争が勃発。
川路は陸軍少佐に着任、現地に赴き新政府軍の熊本城を包囲する西郷軍を撤退させた。しかし熊本城救出に成功するも突然、陸軍少佐を辞任し東京に帰還。
この一連の西郷軍敗走戦の激戦となった横川に、北原氏の後裔とされる川路の銅像が建っている。横には民部塚があり、かつて北原氏の支城 横川城が島津軍に攻められ、北原民部之助が切腹した所だという。
青山霊園の川路利良墓石下には遺言の通り、桜島の溶岩が敷かれた。大久保利通の墓と東三通りを挟んだところ。
維新の元勲、伊地知正治。
薩英戦争、禁門の変で軍役奉行、戊辰戦争では東山道先鋒総督参謀に任命され薩摩藩兵を指揮、西郷も信頼を寄せていた人物。
伊地知正治の墓。
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