2017.8.15
ホテルをチェックアウトして、電車で大垣駅から岐阜駅へ移動。目の前に現れたのは黄金の織田信長像。
今日は終日小雨で天候が悪い。
今日は終日小雨で天候が悪い。
ここからバスに乗換えて長良川国際会議場北口で下車。最初の目的地は、信長の菩提寺である崇福寺。
本堂の拝観には200円かかり、音声ガイドにあわせて展示物を観る形式を取っている。
中でも興味深かったのが血天井というもの。
現場となったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城。時の城主は信長の孫にあたる織田秀信。秀信は石田三成が挙兵すると、家臣の反対を押しきってまで西軍に加担を決めるが、東軍の標的となり岐阜城は攻め落とされた。
現場となったのは、関ヶ原の戦いの前哨戦で落城した岐阜城。時の城主は信長の孫にあたる織田秀信。秀信は石田三成が挙兵すると、家臣の反対を押しきってまで西軍に加担を決めるが、東軍の標的となり岐阜城は攻め落とされた。
家臣の説得により秀信は降伏し落ちのびたが、38名の将兵が討死または自刃した。彼らの菩提を弔うため、その時に血で染まった床板を崇福寺の天井に張ったものらしい。
織田信長父子廟。
右手には父子の位牌が安置されている位牌堂。
朱印帳を受け取り崇福寺を後にした。
バスで戻り、鵜飼で有名な長良橋で下車。長良川の川港として栄えた川原町には、蔵を利用したカフェや工芸品店が建ち並んでいた。
ここで昼食を済ませ、山麓駅まで歩き金華山ロープウェイで岐阜城へ登る。
天候が悪いので天守も薄っすらしか見えない。
ロープウェイを降りると、天下第一ノ門はすぐ近く。ここから10分くらいかけて天守を目指す。
金華山の特徴であるチャートの岩盤が至る所で確認できた。
ニノ門から見える天守。
天守からの風景。
麓に戻る。
岐阜公園の一部になっている信長居館跡は、現在も発掘調査中。
当時の入口はこの冠木門ではなく、板垣退助(岐阜公園内で襲われた)像の辺りだったようだ。
宣教師ルイス・フロイスの「長い石段を登り、宮殿の広間に入る」という記録から裏付けできる。
空中回廊のほか、庭園の遺構などが見つかっていて、客人のもてなしや外交の場として使われたと考えられている。
信長居館跡近くの岐阜市歴史博物館でGifu 信長展が催されていたので立ち寄る。
そしてGifu Media Cosmosの信長公ギャラリーで、CG再現された信長居館の映像を見て東京に戻った。
関ヶ原の戦いの前哨戦で、秀信に仕えた小林新六郎正祐は岐阜城陥落後、河瀬茂賀山城に帰城した。
関ヶ原本戦が終焉し、領内を警戒していた小林新六郎の家臣が、関ヶ原から撤退してきた島津義弘の一行に遭遇し、帰路を案内したという伝承がある。
義弘らは五僧峠を抜けた保月村辺りから案内してもらい、高宮河原で宿を取らせてもらったことを記す感状を小林家に残した。
しかしこの感状では、元服時の忠平の名で書かれているのは疑問があるし、花押は明らかに義弘のものではないらしい。素性を隠すためなのか?
専門家の間では、義弘とはぐれた新納旅庵らが道案内してもらい、感状を書いたが署名を偽造したという見解が取られている。
そもそも義弘の退き口ルートには、はぐれた者の記録も残っていて、混同しはっきりわかっていない。