2017.8.14
岐阜県南部の濃尾平野は木曽川、長良川、伊尾川(揖斐川)の木曽三川が乱流し、いくつもの輪中から成る地形は、洪水による被害が度々起こっていた。1753年、これに江戸幕府は薩摩藩に治水工事の幕命を出した。
御普請御手伝いといっても、人員の確保から資材を含むほとんどの工事費用を薩摩藩に負担させ、財力を削ぐべく幕府の策謀は明らかなものだった。しかし、時の薩摩藩主 島津重年は、お国のためとこれを引き受けた。
総奉行の平田靱負は京、大坂の商人から莫大な工事費の借入に奔走、国許の民は増税を課せられ貧しい生活を強いられる。これでも足りず献金を募ったところ、いち早く応えたのが、朝鮮の役で島津義弘が連れ帰った朝鮮の陶工士たちだったという。
1754年、工区を1之手から4之手まで分け一期工事が始まる。作業環境はというと、各工区に立てられた幕府の役人による嫌がらせ、地元の庄屋に薩摩義士の食事を一汁一菜、日用品の高値販売などを指示するなど、かなり陰険な幕府の対応が伺える。
当然、反発や不服に思う藩士が多く、抗議の意味での割腹、栄養不足による病死など工事への影響も大きかった。
1年3ヶ月に及ぶ工事を終えると、薩摩藩の借金は膨れ上がり、多くの犠牲者も出していた。従事した薩摩義士947名のうち、割腹や病死で命を落とした藩士は86名にも及んだという。そして平田靱負は工事をやり遂げると、責任をとって自刃した。
この日はレンタカーで大垣市から治水神社に向かったのだが、途中いくつもの宝暦治水工事に関わる寺院や墓所があったので立ち寄った。
国道258号線沿いで「薩摩義士ゆかりの地」という看板が目に付いた。1657年創建の天照寺。幾度か補修、修繕がされているのだろうけど、時代を感じる造りにしばし観入ってしまう。
共同墓地の一画にある八木七郎左衛門、山口清作、松下新七の薩摩義士三氏墓。
本堂左側には薩摩義士資料館ってスペースがあって気になるのだが、ふらっと入れる空気ではない。住職に声を掛けて観させてもらった。中央の甕は、近くの根古地浄土三昧から発掘され、遺骸が納められていた甕を復元したもの。
境内に設置の宝暦治水史跡案内図に、根古地薩摩工事義没者の墓、天照寺薩摩工事義没者の墓、大巻薩摩工事役館跡の位置が記されていた。地元のこういう情報はかなり貴重。
迷わず、天照寺のすぐ近くにある根古地薩摩工事義没者の墓へ。もとは浄土三昧という火葬場で、工事中に病死した24名の遺体を各甕に入れて埋めた場所。
1960年に7つの甕が発掘され、慰霊堂(六角堂)を建てて遺骨を納めた。7体の遺骨は分骨して、鹿児島市の大中寺に祀られている。ちなみに24名の位牌は天照寺に納められ、薩摩義士資料館で見ることができる。
そして、多少道に迷いながら大巻薩摩工事役館跡へ。
薩摩藩は、ここ(安八郡大牧村)の豪農 鬼頭兵内の屋敷を本小屋とし、宝暦治水工事を行なった。また平田靱負の終焉地でもある。
駐車場の石碑には、苦難を凌いだ薩摩義士を想い、島津修久さんの書が刻まれる。
平田靱負像。
宝暦薩摩治水工事顕彰供養堂。
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