2016.12.28
里帰りの帰路、鹿児島空港から高速を使わず、一般道を使用し、途中岩剣城跡に立ち寄る。今回4日間の帰省中に、島津所縁の地を回れるだけ訪れることにしている。
予定通り、まず平松城跡地に建っている重富小学校に向かうことにした。
この平松城は、岩剣城に入城した島津義弘が在番中、急峻な道に不便を感じ築いた居館が元となっている。
奥に見えるのが岩剣城跡。それはここからでも十分に見て取れ、このあと身を持ってこの山城の厳しさを感じさせられた…。
麓の岩剣神社へ。
中腹の大手入口まで車で行けるらしいので、車1台通れるほどの幅しかない車道を上がる。
ここから頂を目指すのだが、地元の人曰く、岩剣城跡地登頂には30分ぐらい擁し、ロープ伝えで登る箇所もあると言われ完全にビビった。
頂上までピンクのリボンが目印になってるので迷うことはないだろうけど、日没が近いので断念した。というか、今からの登頂に身の危険さえ感じた。
天文23年(1554)の岩剣合戦。日本で初めて鉄砲(鳥銃)が使われたとされる戦さだが、天文13年(1544)に種子島時堯が屋久島を奪回すべく、弥寝氏との戦さで使用したってのを本で読んだことがある。
天文12年(1543)ポルトガルから鉄砲が伝来し、時堯が複製を命じたらしいんだけど、当時はネジの知識と技術もなかったとか、銃身の底部の塞ぎ方がわからなかったとか。いづれにせよ未完成の欠陥銃だったらしい。
さらには天文18年(1549)、島津家臣の伊集院忠朗が、加治木城攻めで使用した記述もある。
諸説あるが、実戦で組織化されたのがこの岩剣合戦だった、と捉えた方がいいのかもしれない。
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