1/23/2017

多宝寺跡・伊作城跡・梅天寺跡・天昌寺跡・大乗寺跡 (1)


2016.12.29 (2022.12.25再訪)

伊作城跡へ向かう途中、多宝寺跡を先に見つけたので立ち寄る。



ここには、初代 島津久長から9代 善久まで(3代 親忠は天徳寺墓地)の伊作島津家累代墓所、島津貴久らを祀る石亀神社が建立されている。
貴久が島津本宗家を相続し15代当主となったため、伊作島津家は10代 忠良(日新斎)の代で途絶えた。

石亀神社拝殿。



裏手にある伊作島津家累代墓所。


右から初代 島津久長、2代 宗久、4代 久義、5代 勝久、6代 教久、7代 犬安丸。


9代 善久。

 
 
 8代 久逸の墓石は、10代 忠良の母 常盤と3女(肝付兼盛の妻)の墓と同じ区画内にある。



累代墓所の右側には、樺山久高夫妻墓がひっそり建っていた。久高は、朝鮮出兵や琉球出兵で武功を挙げた島津家重臣。伊作郷地頭。




そして伊作城跡へ。
島津四兄弟の誕生地として知られる伊作城は、山之城・東之城・蔵之城・花見城などの曲輪と、主郭とする亀丸城で構成された城郭。

亀丸城跡入口。



亀丸城跡。



御仮屋城跡側に残る土塁。



本丸井戸跡。



日新斎、島津四兄弟らの誕生碑が建ち並ぶ。




御仮屋城跡と亀丸城跡間の空堀。



この堀を降りて、ちょうど亀丸城跡の端までくると標柱がある。



駐車場に戻り山之城に向かう。途中の空堀。




車で移動、次は梅天寺へ。島津貴久4男 家久の位牌が納められたことから妙法寺より梅天寺と名を改める。この墓石群の一番右が家久の墓石。





近くに薩摩永吉地頭であった上井覚兼の「修学の地」って書いてある看板を発見!しかしどれだけ歩くのかわからず、またの機会があれば行きたい。




次に行った天昌寺跡。ドリフターズの影響か、最近は県外から訪れる女性が多いとか。



石屋真梁が1385年に妙通寺として創建。後に永吉島津家の菩提寺となり天昌寺と改められ、現在は永吉島津家歴代領主等の墓所となっている。寺名は2代 豊久の法名「天岑昌運大居士」からきている。

16基並ぶ僧侶墓にある石屋真梁和尚の墓。



正面から向かって右奥に、島津家久から引き継いだ日向佐土原城主 豊久の墓石が位置する。



なぜこの地なのか?豊久が関ヶ原での退き口で、義弘を薩摩へ帰すべく捨てがまりで戦死し、城主を失った佐土原を内府は戦後処理で公領として召し上げ、龍伯(島津義久)が遺臣に新たな知行地として永吉を与えた。

永吉島津家5代 久輝の祠型墓。


6代 久貫以降は五輪塔となっている。



後日、永吉南郷会長より永吉地区の史跡資料を郵送して頂いた。
上記等の史跡をサイクリング等で巡るイベント主催や、永吉島津家墓地の維持管理を行っているようだ。

また、歴史小説「豊久の女(め)」の紹介文があった。知ってはいたけど、これを機にAmazonで5冊すべて購入することにした。1週間でさらっと読めてしまった。
関ヶ原の戦いのちょっと前から薩摩帰還までを背景とし、主人公の目線で豊久が描かれている。




この日の最後は大乗寺跡。島津歳久の母 雪窓院が建立し、後に日置島津家の菩提寺となった。



趣あるこの階段を上がり、民家脇の道を抜けると日置島津家の墓石群があった。仁王像を脇に従え、階段を上がった先が日置島津家初代 歳久の墓石。


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