2017.8.13〜2017.8.14
東京駅から新幹線で名古屋駅着。さらにJR東海道線を乗り継ぎ関ヶ原へ。
早速、関ヶ原駅前観光交流館に併設されているショップで買い物。
徳川家康の四男松平忠吉と、その後見役として井伊直政が約6000の兵を率いて布陣したのがJR関ヶ原駅付近。合戦終盤には戦地から退却する島津隊を追撃し、大きな損害を与えることになる。
ここから東首塚、関ヶ原町歴史民俗資料館に立ち寄り、島津義弘陣跡に向かうルートを取ることにした。
途中の石田三成、島左近の陣跡には馬防柵が再現されている。大型バスの駐車場も完備、人で賑わっていた。
折角だから笹尾山の三成陣跡まで登ってみた。見晴らしはいい。
両軍150000のうち島津隊1500余りと寡勢が故、関ヶ原合戦の陣営で省略されたりもするんだけど、石田隊と島津隊は北国街道を挟んだ位置。近そうでも実際は徒歩10分ぐらい約1キロあった。
布陣図に関しては、明治時代に成立した日本戦史に基づくもので創作されたとの見解が取られている。
合戦後、現在の地に遷座された小池神明神社。説明板によれば、島津義弘がこの境内を陣地とし、戦勝祈願したといわれているとか。
小池神明神社のすぐ裏手に島津義弘陣跡の碑が建っている。とはいっても、島津義弘陣営には池寺池があったというから実際は島津豊久陣営辺りだったと思う。
今回は石田三成陣跡から向かったけど、小西行長陣跡からのルートをとると、島津義弘陣跡へは舗装された道とこの山道がある。
小池神明神社から徒歩5~10分くらいのこの池は、島津隊が軍用として使用したことから薩摩池と呼ばれている。当時の規模がわからないが、ほんと小さな池。古来より涸れることがないって書いてあったけど透明度といい、なんか不思議な池だった。
開戦から正午頃には西軍が総崩れし、後に島津の退き口として語り継がれる前進退却が敢行される。近年の研究家では、島津勢はただ傍観していたわけではなく、2番備えのため戦機が訪れなかったとの認識に変わっているとか。しかし2度も石田三成の催促に従わなかった矛盾が残る。
島津義弘は「敵は何方が猛勢か」と問い、「東よりの敵、もってのほか猛勢」の返答に、「その猛勢の中に相掛けよ」と号令を掛けた。
島津隊の備えは先鋒が島津豊久、先鋒右備えが山田有栄、その後ろに島津義弘本陣。
戦が終焉に向かうと、桃配山から前進してきていた徳川家康本陣。現在の関ヶ原町歴史民俗資料館辺り。
島津義弘は川上忠兄を使者として遣わし、わざわざ島津の陣払いを伝えたとか。しかし、徳川家康は退陣する軍勢を島津隊だと最初は認識していなかったっぽいから、この言い伝えは否定されそう。
史料と相違する点や異論も多々あるだろうが、現地に伝わる退き口のルートを辿ってみる。
島津隊が退却を始めると本多忠勝、井伊直政、さらに松平忠吉の軍勢が追撃。穿ち抜け、捨てがまりの島津家独特の戦法で敵中を突破、伊勢街道へ向かう。
烏頭坂辺りで島津豊久は馬を返し、追撃軍を食い止め、島津義弘を先へと逃がした。そのしんがり戦は壮絶なもので、島津豊久は槍で何度も突き上げられ重傷を負ったという。島津豊久奮戦の地には、勇戦を讃える石碑が建てられている。
また蒲生衆70人を率いた阿多長寿院盛淳は、義弘から陣羽織を拝領し、島津義弘と名乗り牧田上野で討死した。
琳光寺の本堂左手に長寿院盛淳の墓、それに連なるように蒲生士の五輪石が祀られている。
近くの小学校跡地、現在の大垣市役所牧田支所横にその忠烈を讃える碑が建つ。
一方の島津豊久は、従士に支えられながら勝地峠を越えた。この辺りで東軍が勝鬨を挙げ、追撃を止めたことから勝地峠と由来するとか。
島津豊久はなんとか多良郷樫原まで辿り着いたところで、三輪内助入道一斎という人物に道案内を頼み、白拍子谷に匿われた。しかし島津豊久の傷はますます重く、退却の足手まといになるのを恥じ、その夜自刃して果ててしまった。
しかし定説としては、福島正之に仕えた北条旧臣 笠原康明に討ち取られたとする見かただろうか。
上多良公民館の道を入った所にある瑠璃光禅寺(正覚山薬師寺)は、島津豊久の位牌が納められている菩提寺。
近くには、薩摩塚という島津豊久の墓とされる五輪塔がある。後世の宝暦治水工事の際、薩摩義士がここを訪れ、小さな五輪塔を建てて墓としたと伝わる。
島津豊久、長寿院盛淳らの犠牲により追撃を免れた島津義弘らだったが、落ち武者狩りや食糧難に苦しみ、開戦から19日後、無事薩摩に帰れたのは80人余りだったという。