6/22/2018

川田城跡 (1)・松原神社・鶴丸城跡


2018.4.9

花尾神社から県道211号線に戻り車で5分、同じ郡山地域の川田城跡へ。
以前訪れた川田神社、川田氏累代の墓石群の近くの川田城跡に立ち寄った。右手に川田橋を見て、県道211号線を跨いだ左側の山が川田城跡。



川田城は、比志島栄尊(重賢)の三男 盛佐が代官として川田を領し、ここを代官の居城としたものである。そして、12代駿河守 川田義朗が垂水地頭として転出したころまでの約300年間、川田氏の拠城となった。(説明板より)

曲輪や石塁、土塁などが残っているらしいので、車で廻ってみたけど分からず。看板の裏に、おそらく当時の石垣、また曲輪まで通じると思われる道は確認できたが、とても入れる状況ではない。

 


中世の満家院に詳しい著、三州諸家史(氏の研究)・薩州満家院史によれば、「薩摩国満家院の満家氏、比志島氏は志田義広の子 頼重からはじまる。信州守護職であった頼重は故あって薩州に流され、島津忠久公は満家院の地頭職であったので、之を扶助して満家院比志島に居らしめた。頼重は満家院の惣郡司大蔵永平の女を娶り栄尊(重賢)を生んだ。頼重はその後宥されて信州に帰国したが、栄尊は長じて前満家院領主大蔵義佐から惣郡司職(名主)を譲られ、満家を家号として満家左衛門尉源重賢と名乗り満家院を領した。」とある。

ここには志田頼重が流罪になった理由は書かれてないが、粟津の戦いで木曽義仲に与した志田義広に従い連座したのか、そもそも志田頼重が参陣していたのかもわからない。ただ源頼朝に近い島津忠久が扶助したというのは理解し難い。




市街地に向かい松原神社へ。
天文館のしろくまで有名なむじゃきからアーケードを抜け、まっすぐ3~4分歩くと、左手に15代当主 島津貴久を祀る松原神社がある。



松原山(しょうげんざん)に南林寺を創建、御肖像を安置し国家鎮護のため徳宝殿を建てたことに始まる。島津貴久が亡くなった後、島津義久によって南林寺を島津貴久の菩提所と定められた。


参道がまっすぐ延び、御神札授与所を直角に曲がると拝殿。その参道左側には、大久保利通が奉納した奥之院燈籠一対、東郷平八郎揮毫による孝女千世の記念碑などが建ち並び、島津貴久への崇拝ぶりが窺える。
その一つが斉彬公鬢塚。島津斉彬が残した「亡骸は福昌寺に、遺髪は南林寺に納めよ」との遺言に従い、1858年に鬢髪を納めた鬢塚が建立された。



手水舎の石造物は南林寺のものか、だいぶ古い気がする。



彩色が鮮やかな拝殿だが、経年劣化で退色や剥落が著しく進み、昨年に改修工事を終えたばかりらしい。



本殿裏には由緒がわからない石碑がゴロゴロ。



駐車場の一画にある社務所で御朱印を書いてもらった。しばし待つ間、島津氏家紋の湯呑みでお茶を頂いた。



朱印料は、かごしま暦が付いて500円という値段設定。



また、島津貴久が座ったとされる蒲団石、家臣 平田純貞の墓は工事のため見れないとのことだった。



天文館に戻りアーケードを抜け、照国神社を経由、鶴丸城跡に向かう。
明治6年に焼失した御楼門が2020年に完成予定だが、出土品があったり進捗が悪いとか。



タイミング的に御楼門の礎石を見ることができた。また桝形内の石垣には、西南戦争時の銃弾や砲弾の跡が数多く残る。



この石垣の上には御角櫓が建っていた。

6/17/2018

花尾神社


2018.4.9

花尾神社は、1218年に島津忠久が源頼朝の尊像を花尾山の麓に廟堂を建て、安置したのが始まりだとされる。

三国名勝図会に、「忠久公が薩隅日の守護職にて此国に下って来た時に、丹後局及び惟宗広言を迎え取り、広言を市来院の地頭職に補した」、「惟宗広言は丹後局と共に薩洲に下向し、鍋ヶ城に居る」とある。また花尾大権現廟記によると、「丹後局に満家院の厚地村と東俣村を与えた」という。満家院を化粧料として所領したということだろう。
満家院は現在の郡山地域で、厚地村は花尾神社一帯にあたる。その花尾神社に丹後局はよく参詣に出かけたらしい。


県道211号から筋を入ると、丹後局が腰掛けて休んだといわれる丹後局御腰掛石がある。



さらに車1台が通れるほどの道を進み、一ノ鳥居を抜けると社務所があった。帰りに御朱印をいただくことにした。左に見える山が花尾神社。



社務所から花尾神社まではさらに350m。次の鳥居手前右手に、石塔群の看板があり石段を上がると丹後局の墓に辿り着く。

石塔群。



丹後局の墓(多宝塔)。



1227年に亡くなった丹後局の遺言によってこの地に葬られた。しかし、この墓塔は近世のものだとされ、すぐ右の御苔石と呼ばれる石塔が本来の丹後局の墓塔ではないかといわれている。



参道に戻り、左手に丹後局荼毘所跡。



1689年、20代当主 島津綱貴により、六地蔵塔が創建されたが、塔破損のため1805年に25代当主 島津重豪が再建。廃仏毀釈により1875年に地蔵を排し、六角柱に建て替えられ現在に至っている。


やっと鳥居。



色鮮やかな社殿は権現造りで、格子天井には400余枚の植物が描かれている。




帰りに頂いた御朱印。

6/13/2018

木牟礼城跡・鎮国寺感応寺・龍尾神社・龍光寺・薩州島津家墓所


2018.4.8

泰平寺から車で1時間ほど移動。出水市の木牟礼城跡へ。

1185年、惟宗忠久は島津荘下司職、翌1186年には島津荘地頭職に補せられると、畠山重忠の重臣 本田次郎親恒(近常)が任地の情勢を探るため、職務代官として先発し薩摩に入った。
親恒は、同族で薩摩国山門院の院司 千葉秀忠を頼ったという。
当然、土着の豪族が勢力を奮っていて、23回にも及ぶ合戦を繰り返すことになるが、山門院の地に木牟礼城を築くまでに至った。

親恒は1189年の奥州藤原征討に畠山重忠と参陣しているので、思いのほか滞在期間は短かったことが推測できる。また忠久が初陣をかざったのもこの合戦だという。

ところで1186年に薩摩へ下向し、木牟礼城の築城は本田貞親だというのが通説だが、いろいろ掘り下げると、やはり本田親恒とした方が辻褄が合う。
貞親は、重忠の実子で親恒の養子なので、年齢的なことを考えても任務を遂行できたかというと疑問が残る。

1196年、忠久の入国の際に貞親が随従し、山門院の木牟礼城に入った。貞親は城内に竹林城を築きそこに居住。その後、忠久は祝吉御所に移ったとされる。
忠久は鎌倉に戻り、続く島津氏2代 忠時と3代 久経は下向していないので、貞親が現地統治を担っていった。

また忠久は貞親を大隅国守護代としていて、以降、本田氏は代々清水城を治所とし、島津氏に仕えた。島津家久の母(島津貴久の側室)は本田親安(親康)の娘で、本田薫親もこの末裔になる。




木牟礼城の一画、小高い丘の頂に木牟礼城跡の碑と島津氏5代までの城跡だったことを示す石碑がある。



以下、説明板より抜粋。
木牟礼城は初代 忠久から5代 貞久までの間、領国運営の拠点となった。貞久は所領を二子に分与し、惣領の師久に薩摩国の守護職(総州家)、弟の氏久(奥州家)に大隅国の守護職を与え、師久は川内の碇山城に新たな守護所を設け、木牟礼城には貞久が残った。
やがて総州家と奥州家の勢力争いが起こり、総州家が奥州家に滅ぼされると、木牟礼城もその存在価値を失い廃城となった。


木牟礼城跡の手前で、何かの標識を発見していたので後で確認した。この更地が本田近常の屋敷跡だという。道路を挟んで現在民家が建つ所には畠山重忠の屋敷跡が。
この標識自体平成29年建立と新しく、辺りを探ってみたけど遺構的なのは見当たらなかった。




木牟礼城跡から車で10分、鎮国山感応寺へ。



周辺は野田郷武家屋敷跡で、江戸時代初期からの面影を残す武家屋敷、門や石垣が連なっている。薩摩藩の外城として肥後国からの防衛を担い、また地方支配の拠点となった。


1194年に忠久の命により本田貞親が栄西を開山として創建した鎮国山感応寺は、廃仏毀釈で廃寺になるまで島津氏の菩提寺だった。
既述のように建立された年代を考慮すると、貞親ではなく親恒ということになる。


鎮国山感応寺の本堂。



本堂裏側にある忠久から貞久まで5代の五廟社。左から初代~5代の順。




向かって右の壇下には本田親恒(左)、本田貞親(右)の墓石が。
1205年、北条時政から畠山重忠謀反の疑いをかけられ、鶴ヶ峰で重忠と共に親恒は討たれた。




1196年に忠久が薩摩へ赴く途中、博多沖で暴風にあい難航し、筑前筥崎八幡に祈願して難を逃れた。
そして、筥崎八幡を勧請して神社を建て守護神としたことに始まる。現在は感応寺仁王像の横に鎮座している。




木牟礼城跡と感応寺の中間ぐらいに位置する龍尾神社。



神像として忠久の衣冠束帯の木像が現存しているらしい。
この周辺は木牟礼城の屋敷跡であり、昔は御屋地と呼ばれていた。その名残りで、屋地という地名になっている。
現在、公園の片隅にある社殿は、昭和44年に移築されたものとのこと。



ここから車で約30分走り、薩州島津家菩提寺の龍光寺へ。





山田有栄の墓石が目的だが、それっぽいのが見当たらない。住職に伺うと、ここではなく国道328号線を挟んだ山の頂上だとのこと。
ちなみに地元では、山田昌巌と言わないと通じなかった。1629年の出水地頭に赴任したときは、すでに昌巌と号していたためだろう。




中腹にある薩州島津家墓地。




島津氏9代 忠国の弟 島津用久が分家として薩州家と称して以降、140年に及び肥後との国境に接する出水の地を治めた。薩州島津家5代 実久は、本宗家の島津勝久と対立し、勝久は伊作家の島津忠良を頼り、嫡男 貴久を養子に迎え入れ家督を譲った。その後の悔い返し云々はご存知かと思う。

薩州島津家7代 忠辰は、九州征伐で豊臣秀吉が出水に来攻したとき、戦わずしてその軍門に降り出水を安堵された。しかし朝鮮出兵(文禄の役)の折、病として釜山浦に留まり進軍せず、豊臣秀吉の怒りをかって所領を没収され薩州家は廃絶した。忠辰は島津宗本家からの独立を画策していたため、島津義弘への従属を拒んだともいわれている。




正面の墓塔は、薩州島津家初代 用久とその夫人のもので、同じ囲垣の右側に2代から7代の墓石が並ぶ。廃仏毀釈前、もともと龍光寺はこの地にあったらしい。


山頂の山田昌巌(有栄)の墓。



山田有栄は朝鮮の役の功により、福山地頭を拝命した。また関ヶ原合戦では、手勢が少なかった島津義弘の窮状を知り参陣。退き口では右備えを務め、義弘を無事に薩摩へ返した功績はよく知られている。

山田昌巌夫人の墓。

 

6/03/2018

ヤジロウの墓(伝)・福寿山梅岳寺跡・千秋山雪窓院跡・泰平寺


2018.4.8

今日は伊集院周辺から薩摩川内市、出水市を周る予定。まず最初に福寿山梅岳寺跡を目指すも道を間違えたのが幸い、県道206号線沿いにヤジロウの墓(伝)を見つけた。

フランシスコ・ザビエルが一宇治城で島津貴久と会見し、宣教の許可を得た話しは知られているけど、その仲介をしたのがヤジロウ。この道は妙円寺参りのルートでもある。




程なく福寿山梅岳寺跡へたどり着く。島津忠良が三枝舜有和尚を開山として創建。忠良はこの和尚から学び、いろは歌を作ったんだとか。
梅岳寺は福昌寺の末寺で寺高78石。これは住職が直接藩主と会うことができる、お目見得寺の寺格だという。

山門の脇にあったと思われる菩提像を横目に道を進むと、右手に石祠の忠良夫人(寛庭芳宥大姉)墓がある。




次は伊集院駅方面に戻り、千秋山雪窓院跡へ。

1587年、豊臣秀吉への降伏を決断した島津義久は、母の菩提寺雪窓院の境内にあった座禅石で剃髪し、名を龍伯と改めた。
そして秀吉軍の本陣が置かれた泰平寺へ出向き、秀吉に拝謁した。現在は剃髪石が歩道脇に移されて残っている。





薩摩川内市の泰平寺へは、ここから伊集院ICを使うと車で約50分の距離にある。当時いろんな想いで義久が通った道のりを、小1時間で行くのも恐れ多い気持ちになってしまった。

現在の泰平寺本殿。



泰平寺横の泰平寺公園の入口に、秀吉・義久の和睦像を発見。ある程度想像はしていたけど、思いのほか小さい。



公園の泰平寺側に和睦石がある。これは当時の泰平寺境内にあった石を並べて和睦の記念としたものらしい。



当時の住職だった宥印法印の宝塔的五輪塔。左横には江戸時代までの歴代住僧の墓もある。

 
 
宥印法印については小説ネタにもなっていて、どこまで史実かわからなかったけど、ほぼ認識は正しかったようだ。
以下、説明板から抜粋させていただく。

豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、豊臣軍の使者が寺の明け渡しを要求したところ、「住職は寺と運命を共にするもの。一歩たりとも退く気はない。」と答え、寺の明け渡しを拒否した。
これを聞いた秀吉がその態度に感心して、礼をもって再度申し入れたところ、「兵を恐れて逃げたとあれば恥になるから退去する寺を与えよ。」と答えた。
宥印法印は現在の宅満寺に移ったが、兵を全く恐れる様子もなく、毎朝泰平寺に通い読経に勤め、その姿に皆感心したという。

6/02/2018

岩剣城跡・薩摩義士碑・平田公園・大中寺


2018.4.7

後日談だが、5/19に武蔵野大学で桐野作人先生の講習に行ってきた。ちょうど岩剣城の戦いについての内容だったので参考にさせていただく。

薩摩をほぼ平定した島津氏15代 貴久は、必然的に北薩の渋谷一族及び蒲生氏、菱刈氏と衝突する。大隅合戦の緒戦として位置付けされるのが岩剣城の戦いになる。
時は1554年、島津氏に恭順していた肝付兼盛の加治木城を蒲生範清が菱刈氏、渋谷一族(祁答院氏、入来院氏)との連合軍で攻めた。貴久は祁答院良重の支城である岩剣城(蒲生氏が築城とも)を包囲し、加治木城の解放を狙う。

白銀坂に島津義弘、狩集には島津尚久、日当平には島津義久が軍配 伊集院忠朗を従え布陣した。
そして貴久の弟 島津忠将が軍船で脇元城を攻撃を開始。錦江湾に注ぐ別府川を50隻余りで遡ると、それに帖佐平山城から撃って出た敵兵に対して、島津方の鉄砲の使用が認められる。これが島津方が合戦で最初に鉄砲を使用した記録というのも興味深い。

また島津軍の梅北国兼が指揮する足軽が、脇元の民家を焼き払い、苅田を行って祁答院方を誘い出す。挑発に乗せられた敵兵を伏兵が撃つという、釣り野伏せの軍法がみてとれる。

脇元を制圧すると岩剣城が孤立し、貴久は岩剣城への攻撃にかかる。すると祁答院重経を大将に、加治木城を攻囲していた蒲生範清の援軍が加わり、2000余りの軍勢が帖佐平山城から別府川、思川を渡り池島あたりに布陣し島津軍と対峙した。
祁答院方は思川を背にした背水の陣であったが、島津軍は重経・蒲生方の西俣盛家を討ち取り敗走させ、岩剣城はついに落城した。

しかし蒲生範清との決着は付いておらず、続く北村城・松阪城を巡る戦いでは苦戦を強いられている。また初陣を飾った義弘は、岩剣城に在番し飯野城に移るまでここを本拠とした。

岩剣神社から岩剣城跡の大手入口まで車で上がれる。ここから徒歩で登城。



ピンクのリボンを目印に道なき道を進む。



一見、剱ノ岡は独立峰のように見えるが、実際は南西に尾根が白銀山中へ伸びる地形をしていて、それは麓の岩剣神社に設置された城郭図でも確認することができる。



途中、左右にわかれる分岐に出くわす。右に行くと、尾根続きに向かう方向(南西)で堀切が設けられているので、それ以上は進むことはできない。
左のルートを行くと、6合目辺りの鞍部(遠景で観るところのくびれたところ)に、曲輪らしい平地と石積みが残っている。




頂上からの脇元を望む景観。右が錦江湾。




鹿児島市内に戻り、宝暦治水工事関係の所縁の地へ。

鶴丸城跡の石垣の端っこ(北御門の近く)にある薩摩義士碑。



ここから程近い平之町の平田公園は、治水工事で総奉行を務めた平田靱負の屋敷跡が公園として整備されている。



工事は無事完成したものの、多大な犠牲への償いと予算超過の責任を取り、1755年美濃国大牧の本小屋で自刃した平田靱負。



また、公園横のマンションの角に、財政改革の調所笑左衛門の屋敷跡を示す碑が。




平田公園から徒歩で5分もあれば行ける大中寺。

鹿児島薩摩義士顕彰会によれば、「岐阜県養老町の天照寺が、昭和34年の風水害によって墓が洗われ、その分骨を鹿児島にお連れしたことに始まる。その後、遺骨は大中寺に安置された。」とある。



宝暦治水工事で犠牲となった義士、工事に参加したすべての藩士の遺徳を顕彰し供養するため、ここ大中寺に墓塔を建立した。