2018.4.8
今日は伊集院周辺から薩摩川内市、出水市を周る予定。まず最初に福寿山梅岳寺跡を目指すも道を間違えたのが幸い、県道206号線沿いにヤジロウの墓(伝)を見つけた。
フランシスコ・ザビエルが一宇治城で島津貴久と会見し、宣教の許可を得た話しは知られているけど、その仲介をしたのがヤジロウ。この道は妙円寺参りのルートでもある。
程なく福寿山梅岳寺跡へたどり着く。島津忠良が三枝舜有和尚を開山として創建。忠良はこの和尚から学び、いろは歌を作ったんだとか。
梅岳寺は福昌寺の末寺で寺高78石。これは住職が直接藩主と会うことができる、お目見得寺の寺格だという。
山門の脇にあったと思われる菩提像を横目に道を進むと、右手に石祠の忠良夫人(寛庭芳宥大姉)墓がある。
次は伊集院駅方面に戻り、千秋山雪窓院跡へ。
1587年、豊臣秀吉への降伏を決断した島津義久は、母の菩提寺雪窓院の境内にあった座禅石で剃髪し、名を龍伯と改めた。
そして秀吉軍の本陣が置かれた泰平寺へ出向き、秀吉に拝謁した。現在は剃髪石が歩道脇に移されて残っている。
薩摩川内市の泰平寺へは、ここから伊集院ICを使うと車で約50分の距離にある。当時いろんな想いで義久が通った道のりを、小1時間で行くのも恐れ多い気持ちになってしまった。
現在の泰平寺本殿。
泰平寺横の泰平寺公園の入口に、秀吉・義久の和睦像を発見。ある程度想像はしていたけど、思いのほか小さい。
公園の泰平寺側に和睦石がある。これは当時の泰平寺境内にあった石を並べて和睦の記念としたものらしい。
当時の住職だった宥印法印の宝塔的五輪塔。左横には江戸時代までの歴代住僧の墓もある。
以下、説明板から抜粋させていただく。
豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、豊臣軍の使者が寺の明け渡しを要求したところ、「住職は寺と運命を共にするもの。一歩たりとも退く気はない。」と答え、寺の明け渡しを拒否した。
これを聞いた秀吉がその態度に感心して、礼をもって再度申し入れたところ、「兵を恐れて逃げたとあれば恥になるから退去する寺を与えよ。」と答えた。
宥印法印は現在の宅満寺に移ったが、兵を全く恐れる様子もなく、毎朝泰平寺に通い読経に勤め、その姿に皆感心したという。
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