6/02/2018

岩剣城跡・薩摩義士碑・平田公園・大中寺


2018.4.7

後日談だが、5/19に武蔵野大学で桐野作人先生の講習に行ってきた。ちょうど岩剣城の戦いについての内容だったので参考にさせていただく。

薩摩をほぼ平定した島津氏15代 貴久は、必然的に北薩の渋谷一族及び蒲生氏、菱刈氏と衝突する。大隅合戦の緒戦として位置付けされるのが岩剣城の戦いになる。
時は1554年、島津氏に恭順していた肝付兼盛の加治木城を蒲生範清が菱刈氏、渋谷一族(祁答院氏、入来院氏)との連合軍で攻めた。貴久は祁答院良重の支城である岩剣城(蒲生氏が築城とも)を包囲し、加治木城の解放を狙う。

白銀坂に島津義弘、狩集には島津尚久、日当平には島津義久が軍配 伊集院忠朗を従え布陣した。
そして貴久の弟 島津忠将が軍船で脇元城を攻撃を開始。錦江湾に注ぐ別府川を50隻余りで遡ると、それに帖佐平山城から撃って出た敵兵に対して、島津方の鉄砲の使用が認められる。これが島津方が合戦で最初に鉄砲を使用した記録というのも興味深い。

また島津軍の梅北国兼が指揮する足軽が、脇元の民家を焼き払い、苅田を行って祁答院方を誘い出す。挑発に乗せられた敵兵を伏兵が撃つという、釣り野伏せの軍法がみてとれる。

脇元を制圧すると岩剣城が孤立し、貴久は岩剣城への攻撃にかかる。すると祁答院重経を大将に、加治木城を攻囲していた蒲生範清の援軍が加わり、2000余りの軍勢が帖佐平山城から別府川、思川を渡り池島あたりに布陣し島津軍と対峙した。
祁答院方は思川を背にした背水の陣であったが、島津軍は重経・蒲生方の西俣盛家を討ち取り敗走させ、岩剣城はついに落城した。

しかし蒲生範清との決着は付いておらず、続く北村城・松阪城を巡る戦いでは苦戦を強いられている。また初陣を飾った義弘は、岩剣城に在番し飯野城に移るまでここを本拠とした。

岩剣神社から岩剣城跡の大手入口まで車で上がれる。ここから徒歩で登城。



ピンクのリボンを目印に道なき道を進む。



一見、剱ノ岡は独立峰のように見えるが、実際は南西に尾根が白銀山中へ伸びる地形をしていて、それは麓の岩剣神社に設置された城郭図でも確認することができる。



途中、左右にわかれる分岐に出くわす。右に行くと、尾根続きに向かう方向(南西)で堀切が設けられているので、それ以上は進むことはできない。
左のルートを行くと、6合目辺りの鞍部(遠景で観るところのくびれたところ)に、曲輪らしい平地と石積みが残っている。




頂上からの脇元を望む景観。右が錦江湾。




鹿児島市内に戻り、宝暦治水工事関係の所縁の地へ。

鶴丸城跡の石垣の端っこ(北御門の近く)にある薩摩義士碑。



ここから程近い平之町の平田公園は、治水工事で総奉行を務めた平田靱負の屋敷跡が公園として整備されている。



工事は無事完成したものの、多大な犠牲への償いと予算超過の責任を取り、1755年美濃国大牧の本小屋で自刃した平田靱負。



また、公園横のマンションの角に、財政改革の調所笑左衛門の屋敷跡を示す碑が。




平田公園から徒歩で5分もあれば行ける大中寺。

鹿児島薩摩義士顕彰会によれば、「岐阜県養老町の天照寺が、昭和34年の風水害によって墓が洗われ、その分骨を鹿児島にお連れしたことに始まる。その後、遺骨は大中寺に安置された。」とある。



宝暦治水工事で犠牲となった義士、工事に参加したすべての藩士の遺徳を顕彰し供養するため、ここ大中寺に墓塔を建立した。

 

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