2018.7.9
日枝神社近くの修禅寺は、平安時代初期の807年に弘法大師の開基と伝わる。
本堂右手の寺務所で御朱印をいただき、拝観料300円を納め宝物殿へ。
宝物殿には古面と呼ばれるもの、源頼家と源範頼が所用した馬具などが展示されていて興味深かった。
この古面は戯曲 修禅寺物語の題材となったことでも知られ、源頼家に纏わる伝承がある。
鎌倉幕府第2代将軍職を追われ、伊豆修善寺に幽閉されていた源頼家は、北条氏の謀略により漆の入った風呂に入れられ全身が腫れ上がってしまった。その被れた顔を写し取り、苦しみを母 北条政子に訴えるため、面作り師 夜叉王に木製の面を彫らせたといわれている。
修禅寺から桂川を渡り筥湯へ。
ここで源頼家が入浴中、鎌倉幕府 北条時政の刺客に暗殺された場所だといわれている。
北条政子が源頼家の供養のために建立した指月殿は、修禅寺から160m程の距離。
修禅寺山門の仁王堂におさめられている金剛力士像は、釈迦如来坐像の両脇に安置されていたが、さらに前は修禅寺総門におさめられていたものらしい。
釈迦如来坐像。
指月殿に向かって左側に源頼家の墓。
供養塔の裏に3基並ぶ真ん中の五輪石塔がそれだという。両脇は若狭局と一幡との伝承がある。
さらに左手に広場には家臣十三士の墓。
以下説明板より引用。
北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年)7月18日、入浴中に暗殺された。
吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに暗殺されたことが記されている。
この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。
この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年)7月17日にこの地に移築された。
源頼家の墓から410m、この石段をひたすら上がって源義経像へ。
源義経は蒙古へ渡ってチンギス ハンになったという壮大すぎる説もある。
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