2018.7.9
日枝神社は修禅寺の鬼門にあたり、弘法大師の建立といわれている。
鳥居をくぐり石段をあがると、右手に源範頼に纏わる信功院があったことを示す庚申塔。
境内は杉の大木がそびえ立ち神聖な趣き。
源範頼の墓は、先の修禅寺から500mぐらい坂道を上がると辿り着ける。
印象はシンプルで、状態も当時物とは思えない。
説明板に信功院のことも書かれていたので以下に抜粋する。
1193年の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。
源範頼の妻は、丹後内侍と安達盛長の娘というのが定説。
二条院に仕えていた丹後内侍は、惟宗忠康(もしくは惟宗広言)との間に島津忠久を授かる。そして関東に戻り安達盛長に嫁ぎ、もうけた娘が源範頼の妻となった。
しかし丹後内侍と惟宗広言は元サヤに戻ったのか、共に薩摩へ下り余生を過ごしていて矛盾が生じる。
そもそも丹後局と丹後内侍は同一人物ではないとする説もあるし、全てを鵜呑みにすると混乱は必至。
その安達藤九郎盛長の墓は、修善寺梅林に向かう途中にある。
往年は源頼朝に仕え鎌倉幕府創設に尽力。上野奉行職三河守護を歴任、源頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わった。
安達盛長の屋敷は甘縄にあって、現在の甘縄神明宮に安達盛長邸趾の碑が建っている。
吾妻鏡によると、1186年6月10日、病いの丹後内侍を見舞うため、源頼朝は朝光と胤頼の2人だけを引き連れ甘縄の家へ出かけたとある。夕刻だったのか、この日は甚だしい雨と雷鳴。密会とも取れるこの行動は、島津忠久が源頼朝の落胤説もゼロではないと感じてしまう。
2018.8.15
後日、鎌倉に行った時に甘縄神明宮を訪れてきた。
鎌倉駅から江ノ電に乗り換えて長谷で下車し、鎌倉大仏方面に歩き、長谷寺とは逆方向に行くと甘縄神明宮がある。
碑は鳥居をくぐってすぐ右手。
社殿に続く階段下の北条時宗公産湯の井戸。
社殿とそれに連なる本殿。
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