2019.5.1
金峰町から万之瀬川を渡り加世田へ入る。
加世田麓の犬追馬場六角堂にある島津氏9代当主 島津忠国(大岳公)の墓。
大覚寺義昭討伐の功により、忠国は室町幕府から琉球を加封され、琉球への渡航を企てる。そして泊(坊津)でその日を待つ間、坊津一乗院に日参していたという。ちょうど住持の頼憲法印が上京中で、加世田杉本寺の頼済らが留守を守っていた。頼済から真言教を受け深く帰依した忠国は、死後の引導を命じた。
1470年に忠国が泊で亡くなり、公御在日の所命をもって頼済は引導の上、ここに葬り六角堂を建てた。現在は礎石のみを残すだけになっている。
一旦、竹田神社を通り過ぎて島津貴久(大中公)の灰塚へ向かう。
後年、島津義久がここに釈迦院と灰塚を建て亡き父を偲んだもので、1803年に現在の灰塚は再興された。
いまいち灰塚について理解していなかったので調べた。
灰塚とはすでに亡骸が埋葬された後、遺体を納めていた棺で葬儀を行い、燃やして出た灰を埋めそこに塚を築くものらしい。
竹田神社から国道270号線を挟んだ鳥居と橋は、南薩鉄道創立者である鮫島慶彦さんの寄付により造設された。
日新斉(島津忠良)は晩年ここ加世田に居住し、亡くなる1568年まで過ごした。元は加世田城内だったこの地に、保泉寺が建立され日新斉の死後日新寺に改称、例に漏れず廃仏毀釈で廃寺となった。1873年に祭神を日新斉とし、建てられたのが竹田神社になる。
拝殿左手に石灯籠が並び、背後に本殿が連立する。
右手の社務所で御朱印をいただき、日新公生誕五百年記念誌を購入。
竹田神社から常潤院跡への道は、いにしへの道と名付けられ、いろは歌の石碑が連なって建てられている。
その手前には廻城の合戦後、病にかかり亡くなった島津尚久の墓と殉死した尾辻佐左衛門の墓がある。尚久の嫡男は、数々の武功をあげた島津忠長。
常潤院は1538年に日新斉が建立し、晩年は学問所とした。
近くの土手下から廃仏毀釈で埋められたと思われる一対の仁王像が発掘され、常潤院入口に建てられた。
日新斉の墓。
玉垣の中に殉死した満留郷八左ヱ門忠実と中條次良右衛門政義の石塔2基が並ぶ。
日新斉が亡くなると、殉死を申し出る家臣が続出したため、島津貴久はこれを禁止する高札を立てた。しかし両者は日新斉からの信望が厚く、生前からの約束もあり、特別に殉死が許された。
日新斉の墓の横には夫人 寛庭大姉の墓。
別府城(加世田城)は、平家一族の別府忠明が1177年に築城。以降、9代 忠頼に渡って加世田を治めていた。
しかし、1420年に別府氏は島津久豊に降り、薩州島津氏が加世田の城主となる。
時代は下り薩州家5代当主 島津実久は、島津忠良と島津宗家の家督をめぐって争っていたが、1539年に別府城を攻略され、紫原の戦いでも敗れ本領の出水へ隠棲した。
遺構は残っていないようで、現在の別府城入口から上がると加世田小学校跡門柱、別府城址の石碑が建っているのみ。
麓には外城制度の名残りで武家門が現在も残っている。