6/17/2019
常珠寺跡・和多利神社・大年寺跡
2019.5.1
亀ヶ城神社から車で3、4分の常珠寺跡。
相州家初代 島津友久の菩提寺であった大平山常珠寺は、相州島津家墓地として残り、囲垣内の中央に島津忠良(日新斉)の五輪塔、左右に宝篋印塔10基が並列されている。
右側は常盤、島津運久、島津友久、島津忠国らの墓塔みたいだけどよくわからない。
約10分移動し、水晶山花蔵院上宮寺跡へ。
拝殿の屋根に積もった落ち葉や瓦の苔、後ろの本殿は倒壊を防ぐ簡易的な処置が施され、ほぼ放置状態が切なくなるが、由緒ある寺であったことは説明板からも読み取れる。
以下、由緒書きより抜粋。
「594年、日羅上人が修禅していた時、この山に虚空から水晶珠が飛んできて華蔵界のように瑞光を放ったという。日羅は帝都に奏しこの地に神殿と当寺を建立、水晶珠をご神体として神殿に安置した。これが上宮熊野権現である。」
1518年、水晶山花蔵院上宮寺は島津運久によって再興された。後の廃仏毀釈で廃寺となったが、島津氏29代当主 島津忠義が1870年に島津運久と忠良を祭神とし、和多利神社を建立した。
ここに騎馬姿の島津運久像といわれる掛軸が伝わっている。日新菩薩記に島津忠良が、菩提寺である大年寺に島津運久の肖像画を安置したと記されていて、大年寺に旧蔵されていたものが和多利神社に移されたとみられる。
次は5分ぐらいの千手山大年寺跡。
大平山常珠寺の末寺で、養父 島津運久を弔うため1540年に島津忠良が俊安和尚に命じ千手観音像を安置させ、常珠寺4代目の吸江和尚を招き開山させた千手山大年寺。
現在の大年寺跡には、相州家三代の分骨墓が残る。左から島津友久、運久、忠良。
また横の萩原家の供養碑には「平季基の娘めとり島津荘官として肝付移住」、「相州家2代 島津運久 阿多鶴ヶ城居城に同行」などの文面が確認できる。この萩原家は古くから島津氏との関わりが深そう。
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