2019.4.30
仙巌園から市内方面に戻り東福寺城跡へ。築城は1053年、三州で最も古い東福寺城跡地の現在は、多賀山公園として整備されている。
出水山門院の島津氏が三州統治の足掛かりとした城として知られ、その動乱は南北朝時代まで遡る。この頃、薩摩の長谷場、矢上、中村ら各氏は南朝側に属していた。
三俣院高城(月山日和城)を陥された南朝側の肝付兼重は、1340年に東福寺城へ入り、長谷場秀純と共に北朝側の島津軍と8ヶ月に渡る激戦を続けた。翌1341年、ついに島津氏第5代当主 島津貞久はこれを攻略し、その後は東福寺城を拠点に勢力をのばしていった。
駐車場脇に建っている肝付兼重卿奮戦之跡の碑。
ここから階段を上がると曲輪だったと思われる削平地に東郷元師墓、さらに見上げると東郷元師銅像がある。東福寺城西側の堀切で区切られたこの一体は浜崎城と呼ばれていて、東福寺城の一曲輪だったとも別の城だったともいわれている。
現在はコンクリートで固められている堀切だが、雰囲気は感じることができた。
北側に進み階段を上がって頂上を目指す。
主郭付近は段曲輪になっていて、島津氏居城東福寺城跡の石碑が建っている。しかし公園として整備されているのはここまでで、全貌はさらに北側の尾根伝えに伸びていたようだ。
島津氏7代当主 島津元久は、東福寺城が手狭との理由で1387年に清水城を築き本拠としたが、その後も後詰めの城としての機能を持ち合わせた。
また、東福寺城を落とされた南朝側の矢上高純が城主の矢上城(催馬楽城)も、1345年に島津貞久との激戦に敗れ落城、矢上氏は滅ぼされた。
現在の坂元小学校近くの城跡には、南朝之忠臣矢上高純公居城址の碑が建てられている。
東福寺城跡の麓にある祇園之洲公園。遠干潟で祇園浜と呼ばれていたこの地は、調所広郷が兵士の屯集所として埋めたてたことに始まる。その後、島津斉彬は富国強兵を進めここに砲台を築いた。
1862年の生麦事件に端を発し、翌1863年に錦江湾に進入してきたイギリス艦隊と薩摩藩との間で砲撃戦が起こった。これによってイギリス側の死傷者は63名に及び、一方の薩摩側も13名の死傷者を出したほか、集成館や城下はすさまじい被害を受けた。
説明板には薩英戦争時の砲台の配置図、英国艦隊の進路がわかりやすく描かれている。
薩英戦争記念碑。
薩英戦争の遺跡として残る砲台の石垣。
また、江戸時代末期に城下整備の一環として甲突川に架けられた5つの石橋のうち、流失した武之橋と新上橋以外の3橋が、この祇園之洲公園に保存目的で移設されている。
そのひとつの高麗橋。
玉江橋を渡った先のグランドの奥にザビエル上陸記念碑が建っている。1549年にヤジロウの案内でこの祇園之洲に上陸したフランシスコ ザビエルは、一宇治城で島津貴久に謁見。キリスト教の布教活動が許された。
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