2019.6.27
2泊3日の帰省。昼過ぎに鹿児島空港に着き、レンタカーを借りてその足で市来へ向かう。
市来駅前の丹後局舟着場跡之碑。
三国名勝図会の花尾大権現社には、忠久公が薩隅日の守護職に任ぜられ此国に下って来たとき、丹後局及び惟宗広言を迎え入れ、広言を市来院の地頭職とし、丹後局には厚地村、東俣村を湯沐の邑として与えられた、とある。
その下向時の舟着場を示す石碑だが、実際はもうちょっと重信川の方へ下ったところだといわれ、民家の庭先にそれを示す標柱が建っている。
大里川にそそぐ重信川の名は、大里村木崎が丹後局の従臣 重信某に与えらたことから、それに由来すると推測される。
惟宗広言と丹後局が居城としていた鍋ヶ城。宝亀年間(770年~780年)に大蔵政房によって築かれたとされる。市来院郡司として薩摩に下向して以来、市来氏と称して代々引き継がれた。しかし4代 家房には男子がなく、外孫の惟宗政家を養子にとり郡司職を譲った。惟宗姓市来氏となったことにより、同族でありながら恩顧を受けている島津氏に対し不満が芽生え、島津氏との間で系図相論が起こっている。
市来鶴丸城が築城されてからは、鍋ヶ城から政の場が移行されたと考えるのが妥当か。
その広大な平地中央に、惟宗広言のものと伝わる墓が建っている。しかし草木が覆い被さっていて、その全体像の確認は難しかった。
摂州住吉に於いて、丹後局はすでに日が暮れ大雨のなか、狐火の擁護によって島津忠久を無事に出産できたといい、その霊験を偲び、1221年に勧請したと伝わる湯田稲荷神社。
鹿児島で最古の稲荷神社とされるが、1683年の湯田新田開発に際し、当地に遷され現在に至っている。
市来氏の菩提寺であった来迎寺跡に、この地を統治していた市来氏歴代墓塔群が建っている。
三国名勝図会には、丹後局の御霊牌を安置したとあり、丹後局のものだと伝わる墓がある。
また惟宗広言、丹後局従臣の墓といわれるものもあると記されているが、今となっては判別がつかない。
伝 丹後局の墓。
市来院郡司の市来氏居城として、1244年に築かれた市来鶴丸城。
説明板によると、鶴丸城と呼ばれる曲輪群と御惣坊城と呼ばれる曲輪群で構成していたという。古城主由来記に市来家房が最初の城主と記されていて、また他の古文書には、1337年に市来時家と島津貞久の庶長子、川上頼久(川上氏初代当主)がこの城で合戦したと記載されている、とある。
平定された市来氏であったが1462年、再び12代 市来久家が叛いたため、島津立久(島津氏10代当主、家督継承は1470年)はこれを討ち市来氏は滅ぼされた。
鶴丸城跡まで、鶴丸小学校と春日神社の間にある鶴丸城址登道の碑から約350m。
掲示されている鳥瞰図は、最大規模に拡張されたと推定される天文~天正年間(1540年代~1570年代)の復元図だという。
まさに島津薩州家領から島津相州家領になった頃に始まって、島津宗家が盤石な基盤を築きあげた時期と重なる。それに伴い発展していった様が目に浮かぶ。
1539年、相州家の島津忠良と島津貴久は、薩州家の加世田別府城を陥し市来鶴丸城を攻めた。島津実久の弟 島津忠辰を討ち取り城将 新納忠苗を降した。そして市来鶴丸城には伊集院忠朗が入城した。
鶴丸城跡まで30m辺りのところまで来ると、左手に堀切が確認できる。
鶴丸城跡にはそれを示す碑と門柱らしき礎石が現存。
また宣教師ザビエルが滞在したことでも知られる市来鶴丸城。
新納康久が城主の頃、家老ミゲルはザビエルを招き、康久から城内での布教が許された。ザビエルはここに10日間滞在し、長崎県の平戸へ旅立っている。
麓の鶴丸小学校正門の石垣は、1893年に構築された近世のもの。
市来鶴丸城からすぐ近くの法城山龍雲寺跡。
島津立久は、菩提寺として龍雲寺を築いた。1474年、立久が亡くなると、遺言によりここに葬られた。後に福昌寺に改葬され、現在は墓祠のみとなっている。
島津立久公墓地跡。
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