11/15/2019

串木野城跡・南方神社・串木野氏の墓・大中公の廟


2019.6.27

市来から北上、串木野市の串木野城跡へ。

串木野の場所柄、島津宗家にとって出水の木牟礼城への要路であり、南北朝以降も北薩の雄族、渋谷氏一族を牽制するうえでの重要な要所であった。

串木野城を主城として北側に五反田川が流れ、坂之下栫城と浜ケ城が出城として東西に配置されていた。その坂之下栫城で1568年、島津義久と渋谷衆との戦いがあり渋谷衆53人が討死した、と三国名勝図絵に記述がある。

1570年、島津家久が薩摩国隈之城と串木野の地頭となり、佐土原を所領するまでの約10年間に及び串木野城を居城とした。また島津豊久の生誕地としても知られている。



もともと串木野城主であった串木野氏は、薩摩郡本地頭 平忠直の子である串木野三郎平忠道に始まり、5代 忠秋まで約120年にわたってこの地を治めていた。
南北朝時代の1342年、南朝方の串木野忠秋は、北朝方の島津貞久との争いに敗れ、同じ薩摩平氏の知覧の地へと逃れた。
1355年には三条泰季が指揮する南朝方の市来氏家、鮫島蓮道、知覧忠世らが串木野城を攻めたが、島津貞久の子 師久に阻まれ奪還することはできなかった。

島津氏10代 立久のころ、川上忠塞が串木野城主に任じられる。それから3代目の川上忠克は次女を薩州家 島津実久の継室に入れ、実久の家老として島津宗家と対立関係になっている。
しかし1539年、島津貴久が市来鶴丸城を落とした時に降伏、忠克は流罪となったがその後許され、島津宗家を家老として支えた。

南九州に於いてのこういった反島津情勢は、鎌倉時代初期の1197年、東国から薩隅日の守護職として下った島津氏に対し、在地官人の豪族らとの軋轢が根付いていて、時代情勢を背景に南朝方へ恭順する構図が成り立っていた。



串木野城跡の東側に鎮座する南方神社は、かつての曲輪で旧入来邸のすぐ横に鎮座している。
1592年、島津義久が文禄の役で肥前名護屋城へ赴く途中、諏訪上下大明神社を参拝したという。

南方神社となったのは明治維新以降。




串木野氏の墓と伝わる墓塔が城跡近くにある。
串木野忠秋のものだとの記述もみられるが、実際は各部を寄せ合わせたもので信憑性は低い。




串木野氏の墓から南九州西回り自動車道方面に向かい大中公の廟へ。

大中公とは、戒名の南林寺殿大中良等庵主からとったもので、島津氏15代 島津貴久を指す。島津家久が父 貴久の御霊を迎え、良福寺に位牌を祀って朝夕拝んでいたという。

自動車道整備に伴い現在地に移された。


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