2/24/2020
薩摩屋敷之址・浄福寺・一条戻橋
2019.9.27
2泊3日の京都旅。
市バス205系統 四条河原町で下車。
大雲院跡の島津以久の墓を探すも、跡地は火除天満宮となっていて場所が違うようだ。とりあえず近くの薩摩屋敷跡へ向かことにした。
江戸時代の諸国大名は、江戸とともに京都の市中にも藩の出先機関として藩邸を構えていた。
松平(島津)薩摩守の京屋敷は、現在の大丸一体がそれで、裏に薩摩屋敷之址の石柱が建っている。
18世紀初頭から廃邸となった1870年までの約160年間に渡り、代々薩摩守の京屋敷であった。当初、藩邸の入口は錦小路通りにあり、後に東洞院通りにも拡張されている。
市バス59系統 今出川浄福寺で下車、浄福寺へ向かう。
別名の赤門寺という名称は、朱塗りが施された赤門(東門)に由来する。
本堂。
1592年、薩摩湯之尾の地頭 梅北国兼は朝鮮出兵(文禄の役)の途上、謀略をはかり肥後国佐敷城を占拠した。
九州征伐の遺恨、朝鮮出兵に対する反旗、または豊臣秀吉を討つための挙兵など、現代でも見解は様々。この反乱はわずか数日で鎮圧されたとされてきたが、近年の研究で占拠は15日間に及び、軍勢は2000人にまで膨れ上がったといわれている。各地への拡散を懸念した豊臣政権が小規模に改ざんした説にも合点がいく。
梅北一揆に島津歳久の家臣が従事していたことで、歳久が黒幕として疑われた。豊臣秀吉は当主 島津義久に弟の歳久の首を刎ねるよう命じる。そして歳久は竜ヶ水で自害し果て、首は肥前名護屋城の秀吉に届けられた。
さらに京都の一条戻橋でさらし首にされる。このとき在京していた島津忠長は、市来家家臣に盗みとらせ浄福寺に埋葬した。
浄福寺から徒歩10分ぐらいの距離に一条戻橋がある。
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