2021.4.30 - 7.29
前回あまりにも下調べが杜撰だったため、2日間にかけて再訪。
1673年、薩摩藩2代藩主 島津光久の嫡子 綱久が江戸で死去し葬儀が行われ、以降は江戸における島津家の菩提寺となった。島津家の改宗によって多くは改葬されたというが、今でも都城島津家関係の墓は残っている。詳細不明な薩州と彫られた墓石も数多い。
大圓寺本堂裏手奥に、玉垣で区画された都城島津家21代当主 島津久般の墓がある。
戒名は高勝院殿泰心了道大居士。
都城島津家は、本宗家4代島津忠宗の6男 資忠が北郷家を興し、以降17代 忠長(光久3男)のときに島津姓に復した。
周囲には薩州島津筑後家来と彫られた石碑が並ぶ。
薩摩藩8代藩主 島津重豪に仕えた久般は、1761年に拝謝使として共に江戸へ上り、江戸幕府10代将軍 徳川家治に謁見した。しかし天然痘に感染し、1762年に19歳の若さで死去、当時は伊皿子にあった大圓寺に葬られた。後を嗣いだ久倫はわずか3歳だったため、後見人として久般の室 自肯院の影響力は大きかったといわれる。
島津久般から遡り、北郷氏宗家10代 北郷時久の3男である北郷三久が興した平佐北郷家。
北郷氏宗家(後の都城島津家)の庶家で御一門、大身分に次ぐ家老格にあたる。その平佐を領した11代当主 北郷左門久敬の墓は、島津久般の墓へと通じる路のもっと本堂側。
北郷左門久敬の墓の右隣り、新納軍八実意の墓。新納忠元の2男 忠増を祖とする新納家庶流6代当主。
戊辰戦争、西南戦争に従軍。弾薬製造を管理する責任者だったようで、1877年に城山で政府軍に銃殺された。または西郷隆盛の後を追って自刃したとも。
本堂を正面にみて右手。道なりに下った右手一画に本城家の墓が数基並んでいる。
本城家は島津家久の2男 忠直(島津豊久弟)の孫 忠辰(忠頼の2男)が、1681年に2代藩主 島津光久の許しを受け興した永吉島津家庶流。家号は1595年に忠直が菱刈本城を知行されたことに由来する。
一番右の本城源四郎輝澄の墓。領主だったかは不明。
ちょうど住職が居られたので御朱印をいただいた。
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