2021.8.10 (1)
1248年に渋谷重保が相模国から下向し、地名の祁答院を名乗り、13代 祁答院良重までが居城とした虎居城。
川内川の湾曲部を自然の堀とした地形から度々洪水が起こり、現在は推込分水路の整備が行われ、宮之城中学校側と完全に分断された。北端の川の瀬は八女の瀬と呼ばれ、祁答院氏9代 徳重の娘と7人の侍女が川内川で溺死したことに由来する。
虎居城跡遠景。
祁答院氏が13代で途絶えると、しばらく城主不在が続き、1580年に島津歳久が虎居城に入った。ほぼ九州全土を支配下においた島津氏だったが、1587年、豊臣秀吉の九州征伐に島津義久は降伏した。しかし歳久は抵抗を続け服従していない。秀吉の虎居城への入城拒否、帰途の籠に家臣が矢を射るなど秀吉の怒りを買った。極めつけは家臣が起こした梅北一揆で、その責任を取らされ自刃に追い込まれた。
領主としても慕われていた歳久の供養塔は各地に点在するが、その一つが城之口公民館前にある島津金吾歳久供養塔群。
歳久の次に虎居城主になったのは、1595年に都城から宮之城へ移封された北郷時久。
その後、島津宗家と伊集院氏との間で起こった庄内の乱の恩賞で、北郷氏は旧領への復帰を果たしている。
そして1600年、島津尚久の嫡男 島津忠長が虎居城に入り、代々宮之城島津家が城主を務め、明治維新後は華族に列し、国家に勲功ある者として男爵の爵位が与えられた。
虎居城跡の対岸にある宗功寺公園。
宮之城島津家2代 島津忠長が、京都妙心寺の末寺として創建した宗功寺。同家の菩提寺でもある。跡地は宮之城島津家墓所になっていて、忠長以降の石廟が建ち並ぶ。祠堂型の壮大な造りで、細かく彫刻されているのも特徴。
ちなみに初代 尚久の墓石も祠堂型で加世田の竹田神社にある。
再構された鳥居が1997年の地震で壊れ、現在は一部の柱脚と基礎のみが残る。
鳥居を入って左手の亀趺碑。その碑文は、5代 久竹が4代 久通までの功績を称えたものだという。
宝篋印塔の忠長の墓。
背後には殉死した家臣の尾辻次郎兵衛と塩田分太左衛門の墓石がある。
豊臣秀吉の九州征伐に降伏後、忠長は人質として京に上がった。従兄弟にあたる島津歳久の首が一条戻橋に晒された際、家臣にその首を奪い取らせ近くの浄福寺に埋葬した。
また関ヶ原の戦後処理では島津家存続に奔走し、戦さの武功以外でも功績を残している。
7代 島津久方の墓。
6代 久洪には跡継ぎがおらず、薩摩藩主3代 島津綱貴の子である久方が養子に入り7代目を継いだ。本家の血が入ったためか、宮之城島津家の家格は一所持に格上げされている。
3代 島津久元の墓。
忠長嫡男 忠倍が若くして亡くなり、新納家の養子に入っていた久元が戻って3代目に就いた。また妻の御下は島津義弘の娘で、前夫の伊集院忠真が殺害された後に久元と再婚、そして化粧料で佐志の地が与えられた。
御下の墓は佐志小学校近くの興全寺墓地にある。
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