12/05/2021

加久藤城跡・白鳥神社・飯野城跡・伊東塚


2021.8.12 (1)

えびのICを下りてすぐの「道のえき えびの」に、島津義弘公之像が数年前に建てられた。今日は木崎原合戦関連の史跡をまわる。



記録的な大雨にもめげず加久藤城跡へ。以前、木崎原古戦場を訪れた時は日没で断念したため、大雨でも苦にならなかった。

1564年、島津氏15代 貴久は真幸院領主 北原兼親を伊集院神殿村に移し、島津義弘を伊東氏との最前線となる真幸院に入れた。
そして義弘は、北原氏によって築かれた久藤城を増改築、加久藤城と改称。老臣 川上忠智を城代とし、広瀬夫人と嫡子の鶴寿丸を住まわせ、義弘自身は飯野城を居城とした。

大手門跡。



大手門跡から上がっていくと、枡形曲輪の前に加久藤城跡の標柱が建っている。



掲示された縄張り図からすると、本丸跡は竃門神社が鎮座し一部は久藤梅園となっている。義弘が城内守護のために勧請したと伝わり、後に竃門神社と改称された。



本丸跡東側の二之丸跡。




1572年、日向国真幸院の覇権を争い、島津氏と伊東氏の間で起こった木崎原の戦い。
総大将 伊東祐安が3000の兵を率いて三ツ山城を出立。妙見原で二手に分かれ、伊東祐信と伊東又次郎らが飯野城を迂回し加久藤城へ進軍した。この知らせに義弘は遠矢良賢の援軍を送り、伏兵を配置するなど300の手勢を分散、自らは二八坂に陣を構えた。あまりにも計算し尽くされた策略に思えるが、事前に義弘が伊東氏領内に送り込んだ盲僧から情報を得ていたという。
また忍ばせた女中により、加久藤城の弱点が鑰掛口であるとの偽情報に騙された伊東軍は、実は狭隘な難所から攻め入ったことになる。

まず加久藤城西側にある樺山浄慶の屋敷を攻め、鑰掛口を攻め倦ねている間に川上忠智が加久藤城内から出撃、飯野城から遠矢良賢の援軍も到着すると伊東軍は鳥越城跡へと後退した。
そこに義弘本隊が攻め込み、三角田で両軍が交戦。不意をつかれた伊東軍は有力な武将を討ち取られている。

そして白鳥山を越えるルートで高原城へ退却を始めた。しかし白鳥権現社別当寺満足寺座主 光巌上人が僧侶を率いて農民らと白幟を立て伏兵を装い、これに混乱した伊東軍は、木崎原へと引き返そうとした。そこに義弘本隊が再び襲撃、一時は木崎原へと押し戻されたが、背後に回り込んでいた鎌田政年の兵、側面から五代友喜の伏兵によって伊東軍は壊滅的な攻撃を受け敗走した。

実際に現地を訪れてみて、白鳥神社や決戦の場となった三角田、加久藤城と飯野城の位置関係など、かなり広範囲に及んだ合戦だったと実感。


白鳥神社拝殿。



次は飯野城跡(亀城公園)へ。遠景。



大手口の冠木門から登上。



駐車場になっている射場に駐車。ここが各曲輪への分岐になっていて、加久藤城に続く約4kmの連絡道の起点でもある。本丸と西側の物見曲輪はよく整備されているが二の丸、三の丸、東側の物見曲輪への行先表示はあるものの、草が生い茂り進むことはできなかった。

別名を亀城ともいい、本丸跡の城趾之碑には亀城と刻まれている。




枡形曲輪。右の小高いのは物見曲輪。



物見曲輪からの眺め。川内川。



2022.1/28

木崎原合戦で戦死した大将の伊東加賀守ら、伊東氏の家臣220人余を葬り、後に伊東塚と呼ばれるようになった。



多くの供養塔は失われ、現存は9基を残すのみ。左から2基目が伊東新次郎の供養塔。



五輪塔は島津の武将 五代勝左衛門の子孫が、1650年に建立したものだという。


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