2021.8.12 (2)
豊臣政権の九州平定により島津氏16代当主であった島津義久に薩摩国、義弘に大隅国、久保に日向国真幸院が安堵された。それに伴い1590年、義弘は日向国飯野城から大隅国松尾城(栗野城)に居所を移した。
その搦手口を入ってすぐの猫の祠。
義弘が朝鮮出兵の際、猫の瞳孔の開き具合から時刻を判断し、戦さに活かしたというのはよく知られた話。しかし祠までの行き方がよくわからなかった。
現在、グラウンドなど城山運動公園として整備され、松尾城には車でのアクセスが可能。主郭部には、かつて代官城(曲輪)だった辺りが弓道場で、横の駐車場を利用する。
南御門跡の模擬門を入って左手が本丸跡。
南九州では見慣れない野面積みの石垣は、江戸城を築城した太田道灌の子孫といわれる太田武篇之助が築いたと伝わる。
松尾城址の碑。
本丸跡と二の丸跡には館の礎石が残っていて、当時は双方を往来する板橋が架けられていたという。
二の丸跡は模擬門をまっすぐ行った右手。
本丸南東の研屋敷、外曲輪跡には遊具が設置され公園となっている。
説明板の縄張り図によると本丸の北に川内川、東に代官所堀、南には大谷堀、新城堀が巡らされ、堅固で広大な城郭だったことがわかる。
また現代に伝わる薩摩焼は、慶長の役で朝鮮の陶工を連れ帰り、窯を築いたことが始まりという説もあるが、ここ松尾城から窯詰めに使われる道具が発掘されたことで、義弘の在城期間つまり文禄の役後とするのが妥当。
文禄の役に出兵前、御首途の儀(出陣式)を執り行なった正若宮八幡社。
明治に入り勝栗神社と改称。本殿横に島津義弘公歌碑があり、「野も山も みな白旗と なりにけり 今宵の宿は 勝栗の里」と詠んだ古事に由来する。
鹿児島市内に戻り、鶴丸城跡の黎明館で開催されている「南北朝の動乱と南九州の武士たち」を観覧。3日目終了。
翌日空港へ向かう途中、蒲生麓に立ち寄り。武家屋敷通り。
蒲生観光交流センターにて情報収集。無料配布の毎月発行されている蒲生町史談会だよりは興味深く、冊子としてまとめてもらいたいほど内容が濃い。
この日は特に大雨でゆっくり観光できなかったし、また機会があれば訪れたい。
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