2022.1.29 (2)
高月院は1610年に伏見で亡くなった父 島津以久を供養するため、佐土原藩2代 忠興が1612年に建立した佐土原島津家菩提寺。院号は戒名の高月院殿前典厩照誉宗恕居士に由来する。
山門。
本堂左手には、戊辰戦争に関する豊烈曜後之碑などのほか、佐土原城の礎石もある。
ここから本堂裏手に回り込み佐土原藩島津家御廟所へ。初代 以久から10代 忠寛まで(5代 惟久と6代 忠雅は大光寺)の歴代藩主の墓のほか、室や殉死者の墓が並ぶ。
佐土原城跡へ。
伊東一族の田嶋休祐が築城、かつては鶴松山田嶋之城と呼ばれていた佐土原城。1427年、伊東祐賀が入城し、佐土原の姓を名乗ったことから改称された。後に伊東義祐が都於郡城から移ると、城郭を整備し規模が拡大していったという。しかし木崎原の戦いに敗れ島津氏の領地となり、1579年に島津家久が串木野城から移り入城した。家久が急逝すると子の豊久へ引き継がれたが、関ヶ原の戦いで戦死したため幕府領として召し抱えられた。
その後の戦後処理で佐土原3万石を島津以久が拝領し、三男 忠興を連れ垂水から移り初代佐土原藩主となった。しかし以久が亡くなると、垂水島津家の久信と相続争いが起こる。忠興は垂水と不和のため1612年までかけて城郭を補修、天守を建立し権威を示した。
二の丸跡の鶴松館は、上御門・大広間・書院・数寄屋造りなどの御殿が復元され、現在は歴史資料館となっている。
鶴松館裏の大手道から立ち入った。
縄張り図から読み取ると、尾根上に道が延びている様子がわかる登城路。
尾根を進む敵を防ぐため設けられた堀切。
本丸枡形虎口に石積みされた一画が残る。
本丸跡。
発掘調査から古絵図の位置に見つかった天守台跡。天正年中佐土原城図に三層が描かれ、江戸後期に編纂された旧事集書には弐重天守と書かれているという。
中の道からの登城路を通って下城。
天昌寺跡の島津家久と豊久の墓へ。
途中、行先表示には前島津の墓と記されている。家久親子と以久以降の後島津(佐土原島津家)に区別しているようだ。
左から家久、豊久、家久室、家久母の墓。
さらに関ヶ原合戦 戦死者の墓が並ぶ。
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